ベトナムからのたより―平和と友好の旅
2011年9月22日 4日目 17度線 ビンモックへ
非武装地帯へ
ベトナム戦争の激戦であって、北ベトナムと南ベトナムの非武装地帯になった17度線のベンンハイ川付近と、モンビックトンネルの見学の日だった。
フエ市内から2時間半、ベンハイ川につく。非武装地帯は閑散として観光客も誰一人いない。南北統一の記念の塔が立派に存在感をもって建ってはいたが、周りは草もぼうぼうで、管理人は小屋でぼけっとしている。
トイレに行こうにも鍵がかかっていて、入れない。管理人に聞いたら、近所のおばさんがカギを預かっているというので、雪さんに行ってもらい、やっとあけてもらった。「なぜ、トイレを閉めておくのか」との質問の答えは「誰も来ないから」だった。
統一を果たしたわけだから、北朝鮮と南朝鮮の国境のような緊張感は当然ないわけだが、しかし、こんな状態になっているとは、私は驚きを隠せなかった。かろうじて開いていた簡単な博物館を見学しベンハイ川を臨んで激戦を想像し、モンビックトンネルへと移動した。
ビンモックトンネルと案内のおじさん
モンビックトンネルはベンハイ川から車で約10キロメートル、ここも閑散としており、観光客も私たちファミリーともう一人、若い外国人女性だけだった。こんなことはたまたまだったのか、団体がどんと来るときもあるのか。
フエから2時間半もかかるし、フエは見るところがたくさんある美しい古都だし、余裕がないとここまでは足を伸ばさないのかもしれないと思った。ホーチミン近くのクチの方を選ぶのかもしれない。雪さんも「クチのほうが多いですね」と。
雪さんがチケットを買いに奔走、チケット売りの係りを探して呼んでくるところから始まった。公務員と思われる何人かの職員が、テレビを見ながらビールを飲んでゆるりとしている。閑散としている中でも、飲み物を売るテントがあり、そこのおばさんが熱心に売り込みをしてきた。
さて、展示室で説明してくれたのは、聾唖の障がいのある70歳のおじいさんだった。聾唖であるのに、展示された地図や説明文と写真を上手に指し棒で示しながら「わかったか?」と目で確認しながら次に進むのである。ベトナム語がわからない私でも、なんとなく理解はでき、さらに雪さんの説明で理解をした。
トンネルはこのおじさんの案内で入った。スタスタとトンネルを歩き回り説明をするおじいさんはとても小柄。私と同じくらいの背丈だ。実は、このトンネルですんでいた当時の住民で、激戦の経験者だった。
トンネルは3重構造になっており、クチと違ってくらしのためのトンネルだ。よくも手で掘ったものだと、ベトナム人民の勝利のわけがわかったような気がした。
トンネルを出ると、眼前に海が広がっていた。ここは海辺の村。海から上陸しての攻撃からこの地帯を守らないと、アメリカはどんどんと北へと攻め込んでしまう、その最前線での激戦地だった。村を守り抜くことが使命だった。だから村人はこのトンネルを生活の場とした。分娩室もシャワー室もあり、井戸さえ掘ってトンネルの中で水をも確保していた。
分娩室は畳でいえば1畳ほどの広さ、家族の部屋も同じである。天井は大きい人なら頭をつかえる。一緒だった外国人女性は、始終かがんで歩き大変そうだった。このトンネルを見ても、ベトナム人は総じて小柄だとわかる。私がベトナムにいれば、小柄であることは目立たないかもしれない。ここで生まれた子どもは、今、30歳過ぎにはなっていることだろう。
帰路では道の脇に戦士の墓地がありずーっとどこまでも並んでいた。いまだに、撤去されない地雷があって、子どもたちが犠牲になっている。同行した娘が「友だちの理学療法士が仕事でベトナムに来ているけど、地雷で手足をなくした子どもたちのリハビリだって」と言った。「この辺は、毎日毎日、7人8人、10人と沢山の人が死にました」と雪さん。博物館で見た写真のひとつは、統一の喜びに北と南のお母さんが抱き合って泣いているものだったが、その喜びは私の想像を超えるだろうと、「良くありのベトナムがゾウのアメリカをやっつけたものだ」としみじみ思った。
ベトナムの子どもたちは、毎週木曜日は歴史を学ぶために博物館に行く日になっているそうである。今日は木曜日だったのに、ここには来ないのかなあ・・・・・この住民のたたかいを風化させてはならないなあと思いながら、市内に戻った。
沢山の子どもたちとベトナムのエネルギー
それにしても、ベトナムでは子どもの集団を目にすることが多い。特に今日は雨が降ったので、水のあふれた川や湖で魚釣りを楽しむ光景があちこちで見られた。今の日本ではなかなか見られない。「二人っこ政策」はあっても、これだけの子どもたちとの出会いは、この国の今後の発展を示唆するものだった。
ただ、雪さんの話では「救急車を呼ぶにもお金がいる。1キロで大体1万ドル(日本円で80円くらいか)かかる。高い。都会では冷蔵庫はあるが、田舎ではありません。毎日市場で買うのが習慣です。洗濯機もありません。手で洗います」とのこと。
何かにつけて貧困が話題になる。「子どもは沢山生めません。お金がない」子どもが生めないのは、先進国日本も同じだ。
「日本では救急車は無料」との私の言葉に、雪さんは眼をまん丸にして「誰がガソリン代を払うのか」と質問してきた。また「キューバでは医療費は無料、私たちもそうありたいと願っている」との話にも驚きを隠していなかった。
雪さんは「日本の共産党は、医療費下げろ、子どもにお金がかからないように応援しろと、言います。ベトナムの共産党と違います。ベトナムの社会主義良くない」とここでも批判だ。
「私たちはベトナムを社会主義の国だと決めつけてはいません。社会主義をめざしている、と思っています。めざす途中ではいろいろあって、すんなりいかないかもしれませんね。日本は進んだ資本主義の国です。悪いところがたくさんあります。私たち共産党もみなさんと同じく、社会主義の国をめざしていますが方法は違うと思う。国民が納得したことを一つづつ実現していこう、選挙で勝ってみんなでつくっていこうと思っています。」「おお、ステップワンステップですね」と納得しあった。
ちょっとのぞいたフエのドンパ市場は、商魂たくましい人々と買い物客で熱気にあふれていた。80過ぎのおばあさんも地べたに座って宝くじや芋を売っている。貧しさとこのエネルギーに、私は幼なかったので実感が残っていないが、戦後の日本の庶民のエネルギーと重なった。