中国へ―平和と友好の旅

万里の長城へ

高鳴る気持ちで

 気が遠くなるような長い城壁の写真を眺めるたび、過去の歴史への想像力をかきたてた万里の長城だから、期待を膨らませて、北京郊外の八達嶺へと向かった。万里の長城はすでに紀元前七世紀ごろ、斉が領土を守るため山東省に築き始めたのが起源といわれている。秦の始皇帝はそれらをつなぎ合わせ大規模な増築を行った。だから万里の長城というと、秦の始皇帝が思い出されるが、漢の時代にも、明の時代にも、それぞれ五千`ずつ築かれている。

 時代によって、場所は少しずつ違う。一番新しい明の時代のものは、モンゴル族の侵入を防ぐため力を入れて増改築されたもので、秦、漢のものより、全体として南にずれており、渤海沿岸の山海関から、敦煌の手前の嘉峪関までの約三千`。

 現在、観光ができるように整備された長城は、ほとんどが明時代のものである。中でも北京郊外にある八達嶺は、最もしっかりと修復整備されており、代表的な観光地となっている。日本列島を縦断するに匹敵する長さの長城を見るのだから、私の気持ちは高鳴っていた。

紅葉の時期だったが

 北京から北西に六十`、八達嶺に向かう道は、なんの変哲もないごく普通の山道だ。紅葉の一番よい時期とのことだったが、長野県の志賀高原に見るような鮮やかな彩りはなかった。

 東北地方は寒さが厳しく氷点下三十度にもなる地域だから、訪れた街の街路樹も、寒さに耐えうる樹木が選ばれていた。ポプラ、柳、ニセアカシアで、どれも紅葉の時期の桜やもみじ、銀杏とは色合いがちがう。きっと、春の芽吹きは美しいのだろうが、この度は樹木の印象が薄かった。

八達嶺に登る

 さて、いよいよ八達嶺に近くなったら、大渋滞になってぜんぜん前に進まない。原因は、道が狭いので駐車場に入ろうとしていたバスのために、後ろの車が身動き取れなくなってストップしてしまったのだ。

 「世界文化遺産」であるから、日本であれば、案内看板も華やかに掲げ、道も大型バスがどんどん通れるように整備がされ、その周辺は世界遺産とは無関係に、無残に開発されているところだろうと思ったが、ここはなんとも素朴だった。バスから降りたら早速、物売りが殺到してきた。「プーヤオ」を連発してすり抜けて、入場口にたどり着く。家族連れやツアーできたらしい観光客でいっぱいだった。

 唐木さんや深海さんと連れ立って、長城を登り始めた。途中、分岐点で案内人らしい制服を着た男性が、にこりともせず口も聞かずに、手で「あっちだ。」と示していた。彼は、監視も兼ねているのかもしれない。

 帰りに会ったときは、石に座り込んでいて、態度はまったく同じだったから、そんなに人生が面白くないのかと思うほどだった。でも、私たちは歩いていたので体がぽかぽか熱くなっていたが、もう寒くなり始めた季節にたった一人、一日ああしているのだからいやにもなるだろう。

 彼の態度と、その周りに散乱する観光客が捨てたと思われるごみのきたなさは、正直、高鳴る私の気持ちを少し損ねてしまった。しかし、それを忘れてしまうくらい、長城は見事だった。

 八達嶺はそれほど急ではない。でも所によっては這い登るほどの急勾配もあるという。八達嶺の北東にある箭こう長城は、傾斜が五十度もあるところがほとんどで、九十度近いところもあるという。スキーのA級コースの傾斜度どころのさわぎではない。

 きっちりと詰んだれんがの高さ八bの壁、幅六bの上部を歩き見張り台にたどり着く。見張り台は三百bから五百bおきにあった。がっちりとした見張り台には風が吹きさらし、見張り番は辛い仕事だったことだろう。何交代だったのか、食事はどうしたのか、そこで寝たのか、などと、現実的なことを考えた。

 このような城壁を越えて攻め入った、中国最初の騎馬軍団を作った武霊王とは、どんな人物だったのだろうか、そんなことを考えながらそこから見た長城は、「尾根を這う巨大な竜」という表現がぴったりだ。

 峰の流れに沿った曲線はまことに美しく、遥かかなたまで果てしなく続き、そのあまりの壮大さに、ただ呆然としてあくことなく眺め続けた。

人間が造ったものだから

 この巨大な創造物が全て人力で、しかも紀元前の人間が造ったという事実が、誰の心にも言われぬ感動に私たちを飲み込んでしまうのだ。

 人民の強制労働がどれほど過酷なものであったか、想像に難しくない。

 秦の始皇帝は労働にノルマを科したそうだ。計画通り工事が進まない時、見せしめに担当した労働者を殺したという。直接殺されなくても、どれほど多くの人が、飢えと寒さと厳しい労働のために命を落としたことだろう。

 万里の長城には無数の人骨が埋まっている。彼らのうめき声が聞こえてくるようだった。

 長城はまさに命の鎖だと思った。彼らは声なき声でいつまでも歴史の事実を語り続けている。

王府井(ワンフーチン)

 中国最後の晩となった。宵闇せまる中、万里の長城から市内へ戻ったが、天安門や、有名な繁華街王府井(ワンフーチン)は車窓から眺めるにとどまった。不破さんの「北京の五日間」によれば、不破さん一行は最後の晩、王府井に繰り出し、屋台からの掛け声に引かれて「餃子」をかぶりついたという。

 「頽廃とか猥雑とかいった雰囲気はみじんも感じさせない」(「北京の五日間」)王府井には、赤々と電灯をつけた屋台がずらりと並んでいて、私も餃子を食べたくなってしまった。

 十五日瀋陽での夕食は餃子だった。老舗のお店の餃子は十七種類もあって、一種類ずつ食べても十七個。焼いたものは一つだけ、ほかは茹で上げたものだったが、そのおいしさを思い出していた。

中関村化学技園区で懇談

 いよいよ最後の日、トランクをまとめて帰国準備をして、「中国のシリコン・バレー」中関村科技園区へ向かった。中国のハイテク科学技術が集中しているところだ。ここでは、管理委員会の副主任はじめ数人の関係者との懇談で終わったので、見学をする時間がなく残念だったが、中国の力の入れようは十分伝わってきて、日本が追い越されるのは時間の問題ではないか、と実感した。

 地球温暖化の原因である二酸化炭素の放出率は、アメリカについで第二位でもあることも、発展のすごさを物がたっていると思う。公害問題では改善に力を入れ「公害出す工場はなくなってきています」とのガイドさんの説明だった。

 まず、広さに驚いた。三百平方`という広大な土地に、一万三千の企業、(そのうち外資企業は一割強の一千四百社)が入っており、大部分が従業員二十人から五十人ほどの小企業で、ここで働く労働者は五十万人もいるという。さらに中関村には三十九の大学と二百三十一の研究所があって、四十万人の学生が学び、開発の中心を担う人材を毎年十万人送り出している。

 企業には、減税などの優遇政策が多数取られているほか、もう一度立ち直れるように「失敗を許す」政策を取っていることには驚いてしまった。毎年、GNPは二〇%の速度で発展しており、生産高は一九九九年には百億j、二〇〇三年は三百億jに達している。

 短い時間ではあったが、私たちから「環境問題」や「企業の所有形態」などの質問をいくつかすることができた。

 私も、「高度成長と生活の貧しさとのギャップを埋めるために、一番力を入れている対策は?」と聞いてみた。「個人の収入でいえば、二十年前と百倍の違い。一九八四年には大学卒で五十元だったが、現在は五千元です。物価は十倍上がっています。政府はそれぞれの人が才能を発揮することを重視しています。同時に社会的に生活が困難な人には政府として補助援助していきます。」と答えてくれた。農業政策や社会保障の促進が大きな課題になっているのだ。