コラム―散歩道

鮭はオレンジ色ではなかった

よく食べるようになったのは

 鮭が食卓に上るようになったのは、長野に住み着いてからだと思います。私は海辺の育ちのものだから、塩鮭を食べなくたって、ほかにおいしい生の魚がたくさんあったからかもしれません。魚は、まず生、続いて焼いて、煮物が次、どうにもならないものは漬け込む、と、私の父は始終言っていましたから、焼くと塩が吹いてくるくらいしょっぱい保存食の鮭の存在は、魚の範疇にありませんでした。でも、長野は魚のない山国ですから、塩鮭は貴重品だったのでしょう。と言うより、夫の話では「魚は塩辛いもの」であって、秋刀魚も塩漬けで食べるものだと思っており、ぱっと塩をふって焼く魚のおいしさには縁がなかったそうです。私と知り合って初めて「鯵の塩やきがこんなにおいしいとは」と感嘆していました。

 そして姑母さんもまた、魚といえば鮭しか食べない人なので、はじめは驚いたものです。

 最近は流通革命で長野でも生から甘塩までの新鮮な魚が手に入るようになっています。保存食としての役目が薄くなったこともあると思っています。

 先日、山ノ内町で訪問活動した時、味にこだわりを持つFさんのお宅でお昼をご馳走になりました。おかずは新巻鮭。「これはやたらと誰彼にださないのだからね。築地から来た鮭だよ。」との彼女の自慢通り、たいそうおいしい鮭でしたがほんとに貴重品。スーパーに並んでいる鮭は、はほとんどが輸入品になっているのも気になります。

村上市の鮭

 私の故郷の石巻と同じ海に面している町でも、村上市は鮭で有名なところです。末娘が村上市の専門学校に入学したおかげで何度か遊びに行く機会にめぐまれました。鮭の博物館(イヨボヤ会館)も見学して鮭の生態や村上市民の鮭への思い入れを知り、鮭は今までになく親しみ深い存在になりました。

 村上藩士だった青砥武平次が、鮭は生まれた川に産卵に戻ることを発見し、三面川に特別の工夫をして日本で最初に近代的な増殖法を実現しました。三面川には毎年2万尾の鮭が上ってくるといいます。

 村上では、鮭のことを「イヨボヤ」と言います。「イヨ」は「ウオ(魚)」がなまった言葉とのこと。「ボヤ」も広く魚をさす言葉、「イヨボヤ」は「魚の中の魚」の意味です。重要な生活の収入源になった鮭をこの上なく大切に扱った、住民の思いがこもった言葉だと感じました。だから、どこも捨てることは出来ないのでしょう。全てを利用しての料理は100種類以上あると聞きました。

 娘から、鮭の料理全てを食べつくすお祭り期間があるとの連絡を受けましたが、出かけることはできず、大変残念でした。

 村上の塩引きは、腹を一文字に切ることはしません。途中で一箇所、つなげています。城下町の村上では、武士が「腹を切る」つまり「切腹」は縁起のいいものではなく嫌がられたのでしょう。一箇所がつげた腹から内臓を抜き出すのは手間と技術がいると思うと、それは芸術品に見えて、天井から何十尾もつるされている眺めは、圧巻でした。

 普通の塩引きと違い、燻製っぽい味がしました。

ふるさとにかえる鮭に思う

 鮭は海水にも淡水にも適応できるように、浸透圧で調節できる体を持っています。だから川で生まれて大海に出て、再び川へと帰れるのです。

 それにしても、鮭は何を手がかりに生まれ故郷がわかるのでしょう。太陽の位置を目指してとか、地球の磁気で判断してとか、川の臭いで故郷をかぎ分けるとか、いろいろ説はありますが、不思議としか言いようがありません。

 産卵をするために故郷まで長旅をする鮭に感動を覚えます。そして産卵を終えた鮭が、傷だらけの体をまた岩にぶつけて傷を深めながらやがて死んでゆく姿は、痛いたしくも往々しくさえ思えます。

 「産卵した鮭は価値がない。まずい。」これは誰もが認める事実、確かに商品としてはそうです。が、子孫を残すために最後の命をふりしぼった鮭に対しては、尊厳を守るために言ってはならない言葉でもあるとも思うのです。

鮭はオレンジ色ではなかった

 長野に来て早々、ある時、一匹の生鮭をいただきました。それは、「三面川」に戻ってきた鮭でした。私はこの時初めて、切り身でない丸ごと一尾の鮭を見たのです。そして驚きました。鮭はオレンジ色ではなかった!!

 薄い肌色というか、優しい桜色をしていました。皮も黒ずんでいなかった。全体が薄いグレーでした。塩をふったり、冷凍したりしたら、身は見事なオレンジ色に変わってきたのでした。カルチャーショックでした。

 きっと、夫が「鯵の塩焼きはうまい」とわかったくらいのショックだったと思います。「鮭はオレンジ色」は固定観念でした。私たちは、他のことでもこのような固定観念に意外と取り付かれているのかもしれないな、と思ったことです。

(2005年2月4日記)