コラム―散歩道
弁当によせて
新婚生活と共に
私の弁当つくり暦は27年、結婚して2年間の別居ののち同居できるようになって以来、基本的には毎日作り続けています。2年間は学生だった夫は仙台に、当時教師だった私は、千葉県柏市にそれぞれ住んでいましたが、私が住んでいたアパートに夫も住み着くようになったのは5月、同じ月に長女が生まれ、一挙に3人での新生活が始まったのです。弁当つくりも、一緒に始まりました。
私の新婚生活は、こうして華々しくはじまりました。弁当作りは、花を添えるような仕事でした。
がんばらことがコツ
しかし、毎日はしんどいものがありました。その時、夫の上司であったKドクターの妻どのが、「気楽につくればいいのよ。残り物入れて。」と言ってくれたことで、急にらくらくして肩の力が抜けました。良い妻になろうとがんばらなくていいんだ、と悟ったのでした。
以来、弁当つくりは私の生活の一部、初めは夫の分のひとつ、一番多いときで家族全員分5つの時代もありました。
今日もまた、がんばらないで作ってきました。
弁当箱はキャンバスと同じ、彩りよく美しく、そしておいしく見えるように、おかずで絵を描いてゆく気持ちで詰めていきます。
つめた後の弁当のスケッチをしていた時期がありました。「つまらないことを」とお思いでしょうが、これが大変楽しい作業でした。スケッチすることで、弁当つくりは完成をみるわけです。食べてしまえば、跡形もないのですから。
弁当スケッチは、ノート一冊分、残っていますが、年数がたった今、面白い記録だなと思うことがあります。
ソーセージが最高のおかずだった
私の子ども時代は、給食は小学校だけ、ですから中学校に入ると同時に弁当持ちになりました。どんなおかずが入っていたのか、今では思い出すことさえ出来ませんが、二つだけ、忘れられないものがあります。
ひとつは、ソーセージです。今ではロースハムや生ハム、ポークソーセージなどの上等品を口にすることが出来ますが、当時のわれわれの上等品は魚肉ソーセージ、赤いセロハンの紙に包まれたピンク色の「あれ」でした。
薄く斜めに切ってフライパンで焼くと、おいしそうに焦げ目ができます。それを白いご飯にのせてもらった朝は、お昼が楽しみでした。これはおかずの中でも、ランクは上位でした。
もうひとつは、「赤いのり」です。おにぎりの時、貧しくて黒々したのりが買えなかったので、母は安物の赤茶色をしたのりを使いました。事情はわかってはいても、「のり」とは名ばかりの代物に、友達の前で見栄を張りたい年頃だった私は、いつも悲しい思いをしていました。黒いのりは憧れでした。
憧れの黒いのりは買えるようになりました。時々、あのころの「赤いのり」を思い出し、あのような辛さも大切な経験だったと思うのです。
飽食の時代、恋焦がれるような食べ物を私たちは持っているでしょうか。
忘れてしまった「弁当の日」
思いだすと、今でも心が痛む出来事がありました。
娘が保育園に通っていたころ、「お弁当の日」がありました。その日は給食はなしで、お母さんの作ったお弁当を散歩先の野原で食べる行事でした。
どういうわけか、「弁当の日」をすっぽり忘れてしまい、お迎えの時に初めて気がついたことが一度ありました。娘はどんなに寂しい思いをしたことでしょう。私は血の引く思いでした。
「お友達や先生にわけてもらったから大丈夫。お母さん、忙しくて忘れてしまったのね。」と、子どもの前で母をかばってくれた先生の優しい言葉に、私は子どもに申し訳ない気持ちをいっそう深くしたのでした。
今でも、思い出すと、心がずきずき痛みます。娘は、覚えているでしょうか?