コラム―散歩道
我が家で暮らした動物たち
こどもは動物がすき
子どもの動物へ寄せる興味は、なんと新鮮なことでしょう。吸い寄せられたように動物を見つめる、好奇心に満ちた目の純粋さに、私はそのたび引き付けられてしまいます。「こんなにキラキラと関心を寄せる心を、私は忘れてはいないだろうか。」そう頭をよぎるものがあります。
生まれて最初に覚える言葉も、「マンマ」「ブーブー」と並んで「ワンワン」は定番として出てきますから、ひきつけられる心の強さを物語っているのではないでしょうか。
赤ちゃんは、大人にあやしてもらって、向かい合った「二つの優しい丸いもの」を見て笑顔を獲得していきます。三角や四角ではなく丸いもの、しかもひとつではなく二つ。心地よさも、時には不快も与えてくれる不思議な目というものを持った人間以外の存在に、興味を持って当然だと思います。
動くおもちゃと違って、心のキャッチボールが出来るのですから。
子どものころに動物との良い出会いがあれば、誰もが好きになると思うのですが、私は苦手でした。大嫌いではないけれど、大好きではないのです。心からいとおしいと思うことは出来ませんでした。
おそらく私の母が動物を毛嫌いしていた影響を受けたのかもしれません。
でも、私のように動物が苦手になってはいけないからと、私は世話をしないとの約束で、わが子にはいろいろな動物を飼うことを許しました。夫が責任を持ってくれました。
まず熊五郎、そしてウサギ、アヒル・・・
長野に引っ越してきて、湯谷団地に住みました。1985年夏の地付山地すべり災害に巻き込まれ家屋は全壊、それまで5年間住んでいました。
山の斜面に造成された団地だったので、両隣との境にかなりの段差があり、隣を気にしなくて良い長所がありました。
その上、家は小さかったけれど、庭は300坪をゆうに越える広さで、そこが気に入って借りた家でした。
ここで飼った動物は、真っ黒な毛並みの雑種犬「熊五郎」、ウサギ3羽(どんどん生まれて増えました)、うずらを数羽、鶏を2羽、それにアヒルが2羽、十姉妹2羽、そのほか金魚やめだか、でんでんむしにザリガニなど、魚、虫や昆虫はもちろんのことでした。
友人のうちでヤギのお産を見る機会があって、「生まれた子ヤギをもらって飼いたい」と子どもたちが言い出したときばかりは、冬場のえさの確保が大変であることを説明して、あきらめさせました。
私もこの時生まれて初めて、動物のお産に立ち会いましたが、私が始めてこの世に生命を送り出したときと重なって、神秘的な感動に包まれました。
子どもが「飼いたい」と思うのは、当然のことでしょう。
猫は初めから除外しました。真ん中の娘が喘息だったので、家の中には動物は入れない約束でした。
アヒルにいじめられた熊五郎
ある日、仕事から戻ったら、熊五郎がいないではありませんか。つないでおいたのにどこへ・・・と探していたら、近所の方が血だらけの熊を抱いてきてくださったのです。
「放し飼いのアヒルにつつかれてク―ンクーンと泣いていたのよ。怪我していたから避難させておいたわ。」
とのことでした。
アヒルをしこたま怒って、それからは私たちが出かける時彼らはオリの中に閉じ込められることになりました。
アヒルは獰猛なところがあって、くちばしを突きだした彼らに「ぐえ、ぐえ・・・」と追いかけられると、私は恐ろしくて庭に出られない時もあったのです。
反対に熊五郎はおとなしい犬だったので、熊五郎のごはんは、アヒルやすずめ、近所の猫の餌場になって、仲良く共存していました。
グリとグラのホットケーキ
アヒルの卵は、にわとりの卵の3倍もある大きさです。バラの根元にまとめて産み付けましたが、自分では抱こうとしません。
そこで、夫は代理ママとしてにわとりを飼うことにしたのです。ところが、にわとりも抱いてくれない。だから、卵は、大きな卵焼きやホットケーキに使いました。
まるで絵本の「グリとグラ」みたいでしょう。「グリとグラのホットケーキだよ!」といえば、大喜びでした。
湯谷団地では、動物とくらすことが当たりまえの生活を送っていました。
アヒルが生きていた
地すべり災害で、避難生活をしいられ、初め湯谷小学校の体育館に避難しました。
災害現場が落ち着いたと県当局が判断し、家に様子を見に行く許可が下りたとき、近所の方から「お宅のアヒルではないですか」と2羽のアヒルをわたされました。
どうやって生き延びたのか、驚きました。それにしても、さあ、どうしましょう。どうしようもないので、とりあえず湯谷小の観察池にはなしてしまいました。
そしたら、観察池の金魚をみんな食べてしまったのです!
教頭先生に呼ばれて、「アヒル、どうしますか。」と相談されました。ひたすらあやまって、「もう湯谷団地のような広いところには住めないので、学校で飼ってください」とお願いしました。
学校は小屋を新築してくださいました。その後消息は聞いていませんが、彼らはきっと、子どもたちに囲まれて幸せな老後をおくったことと思います。
熊五郎はきっと生きている
しかし熊五郎はつながれたまま、土砂の下敷きになってしまったのです。
どうして子どもたちにそれを伝えることができるでしょう。「きっと逃げたよ。どこかにいるよ。」と励ましてきました。近所に住んでいた、今は共産党市会議員をしている野々村さん宅の大五郎がうまく逃げて助かったので、子どもたちは熊五郎に、一縷の望みを託していました。
テレビの災害の報道で、一瞬、黒っぽい犬が走っていく光景が映し出されたことがあります。
「あっ、熊だ!お母さん、熊だ!」と叫ぶ子どもの声に、「きっとそうだ!よかったね。生きていたんだね。」と共感してあげたのでした。
あれはうそだったと、大人になった彼女らはもう知っていますが、幼い子どもには希望が必要だったのです。
虫と昆虫の宝庫の地に引越し
私たちは、夫の実家にお世話になったり、仲間の助けで仮の借家に住んだりしながら、やっと安定した新しい生活に入ることが出来ました。長野市北部の上野というところに住むことになりました。
もう、湯谷団地のように広いところには住めないし、まして平地に来ましたから、初めは窓が隣と同じ高さであることに、ずいぶん抵抗がありました。動物を飼うことは、もちろんもう出来ませんでした。
でも、ここは、当時は周りが雑木林に囲まれていて虫と昆虫の宝庫でした。そこが良くて住み着くことにしたのでした。毎朝、散歩にいっては、父がクヌギの木をけり、ばさっと落ちてきたカブトムシやクワガタを、子どもたちと私が拾うのです。
放課後子どもたちは、毎日のように友達と幼虫を掘りに出かけました。庭にはカブトムシの幼虫の温床が作られ、幼虫を見つけてきては埋めて、埋めたものを何度も出して確かめたりするので、「それはいけない」と教えたものの、奇形のカブトムシがたくさん出ました。
子どもは、時には残酷なことをするものです。残酷なことをしながら、命の尊さがわかっていくのだと思います。私も、トンボのお尻にわらを突っ込んで飛ばせるとか、かえるを道路に叩きつけて殺して、ザリガニ釣りのえさにするなど、残酷なことをしてきました。
そもそも人間は、人間以外の命をもらい、自然に生かされているのですから、そのことにいつかどこかで気づく経験が必要なのだと、私は思います。人間も、 自然の一部なのですから。
新しい友達、ムク
さて、犬だけは飼いました。犬は「ムク」と名づけました。ムクは、地すべりの起きた7月25日に、友人宅でうまれた犬です。ムクも熊五郎のように優しい犬でした。ムクは子どもたちの大のともだち、長女が小学校2年生の時に家族になって、18年の長い生涯を送りました。人間で言えば、80歳をこしたのでしょうか。
彼の老後は、だんだん目が見えなくなり、食事のボールを捜すため鼻でかぎまわり、柔らかいものでないとかめなくなり、足腰が弱ってちょっとした段差も乗り越えられなくなってきました。散歩ももう、本人は希望しないようになりました。人間の老後と同じです。
ある日、ムクは息を引き取りました。私は、仙台市、新潟の村上市、神奈川県の相模原市にいた3人の娘それぞれに彼の死を伝えました。
3人とも、電話の向こうで、すすり泣き、そればかりか、「ムクに会いたいから帰る。」というのです。
みんなが帰るのを待っているわけにはゆかない事情を話して押しとどめましたが、ムクは大事な家族の一員でした。
かつて私は子どもたちと一緒に、「ゾウ列車合唱団」で歌いました。戦争で疲れたこころを癒してくれた、サーカスの像と子どもたちの物語です。
「・・・人間の命をいつくしむ心を、動物の命をいつくしむ心を、子どもたちよ、いつまでも、忘れないでほしい、・・」
この歌詞が自然に浮かんできたのでした。
動物との暮らしは、命の尊さを心にきざむ生活なのだと思います。
共に暮らすことは心を寄せ合うこと、そして何より、神秘的な命の誕生と、悲しい最後の別れという、人生の初めと終わりの経験をします。特に最後のお別れは、動物を飼ったものが背負う宿命です。
私は今、末娘が一緒に暮らしている犬、ジェイがかわいくてなりません。帰省のときに連れてくるのです。
私も「二つの目」に吸い寄せられた赤子のように、動物に新たな親近感を覚えています。娘たちがいたことで、開けた世界です。
そして平和でこそ、動物とくらせることを私は強調したいのです。戦争になれば、飢えがやってきます。あの戦争の時にも、「ぞうれしゃ」で歌ったように、動物はみんな、殺されてしまったのです。