コラム―散歩道
列車で旅する
ふるさとへの道のり
大学を卒業して以来、ふるさとを持つことになった私は、多くの方と同じように帰省をすることが旅のひとつになりました。
田舎に向かう列車に乗ると、自分の存在のルーツに向かう安堵感に満たされます。中学生や高校生になった青年が、保育園に行くとほっとする気持ちと同じようなものでしょうか。
説明しなくてもわかってもらえる世界の存在は心のよりどころであり、言い換えれば、無心に丸ごとの自分を出して付き合った仲間がいるということでしょうか。
今では母も年老いて、昔のように甘えに帰るわけには行かない帰省ですが、歩くことさえままならない母に、幼き日々と若かった母の姿が重なって、いっそう懐かしさにあふれるふるさとになっています。
どこまでも続く線路は、見知らぬ街への憧れと望郷の思いを、私の心にかきたてます。帰省は「距離」と飛ぶことではなく、「道のり」を歩くこと。列車に身をゆだね、ここまで生きてきた人生や今の自分を見つめ、老いた母や、老いてゆく自分を考えるひと時なのです。
速くはなったけれど
長野に住むようになって、「石巻は遠い」と実感したのは、子連れの帰省の時でした。
当時は新幹線もなく、石巻に行くには長野から上野まででて、上野から東北本線で仙台へ、仙台からローカル線の仙石線で一時間半余、トータルで十時間以上かかる旅でした。
十時間以上もの列車の旅は、子どもには耐え難いことです。ですから、私たちは、長野から上野までか、上野から仙台までのどちらかを、寝台車を利用していました。
ある年、まだ子どもが二人の時でしたが、奮発してA寝台を二つ取りました。夫と私とでひとりずつ添い寝していくつもりで。
ところが、次女が泣き出し、納まらなくなりました。「迷惑だからデッキに出てください」と車掌に忠告されて、夫はむずかる次女を抱いてデッキに出ましたが、結局、娘は一晩中ぐずって、夫はデッキで朝を迎えることになりました。
こんな思いをしてやっと着いたふるさと、列車の中で、父や母のこと、幼友達のこと、あれこれ考えながら思いを膨らませてやっと着いたふるさと、「ああ、帰ってきた!」との安堵感。口下手な父が、しまいこんであった孫のおもちゃや椅子を用意して、自分は照れくさくて寝たふりをしていた光景を昨日のことのように思い出します。
今では、新幹線が通り、仙台まで3時間足らず、そこから石巻へも快速で一時間足らずで着くようになりました。速く着くようにはなったけれども、ふるさとへ向かうこころの準備が出来ないうちに、体だけが着いてしまう、空虚な違和感が残ってしまうのです。
日常から抜け出して、別世界へと心を膨らませる「道のり」が抜けてしまった空虚な気持ちです。
便利さの恩恵にも充分預かっているわけですが、その裏ではとても大切なものが失われていっていることを、時々は立ち止まって考えることが大切と思うことが増えてきているこの頃です。
車椅子で旅行
亡き父は、函館に長いこと出稼ぎに出かけていました。函館の生活は父の自慢、いつも聞かされていた母は、「いいところなんだって。一度行きたいものだね。」と、常々言っていました。
その母も83歳、今行かなければ、もう連れて行ってあげられない、そう決断して家族旅行を計画したのが3年前です。
母は車椅子が移動手段でした。初めて、車椅子の人を連れ出す長旅の経験をしたのです。JR東日本も、全日空も、障害者への親切な対応をしてくれたので、正直驚きました。
長野駅でお願いすると、係員が改札口から列車の座席まで連れて行ってくれました。東京に着くと、すでに乗車号数の連絡も受けていた東京の係員がドアの前に待機しており、座席から乗り換えのモノレールの座席まで、車椅子の通れる特別なルートで案内してくれました。
みごとなリレーで飛行機も含めて移動で困ることはありませんでした。
障害者に対する当たり前の対応だと思いますが、初めての経験でここまでは予想していなかったことでしたから大変ありがたく、心から感謝しました。いざとなればエレベーターがない場合の駅の階段は家族が交代で担っていこうと思っていましたから。
障害者を大切にするこのような姿勢は、人命の安全を大切にすることにつながる考え方、これを全体の経営基本方針にすえていたならば、JR西日本福知山線の悲惨な事故は起きなかったはずです。
107人の命を奪ったJR西日本と、分割民営化を強行し安全装置の義務付けの規制緩和まで許して、人の命より企業の利益を守った政府の責任は、どんなに厳しく問われても、厳しすぎることはありません。
今日の新聞によると、ロンドンでは16歳未満の市バスの運賃を無料にすると、市長が発表したとのこと。
地方自治体のことではありますが、公共交通網へのポリシーをしっかり感じます。大企業のために何でもかんでも民営化を強行しようとしている日本政府となんという違いでしょうか。
「はるばる来たぜ函館」
母を連れての家族旅行の一年後に長女は結婚しました。母は 一年といえずますます弱ってきていますので、あの時が、我が家の最後の家族旅行となってしまうのだろうかと、行ってよかったとの思いと寂しさが同時に存在しています。
「父ちゃんはここで荷揚げしていたのだね。人の二倍働いたって。」とか、「五稜郭は本当にきれいだね。まさか来れるとは思っていなかった。冥土のいい土産になった。」などと言う母の嬉しそうな顔を、私は脳裏に焼き付けました。
父も一緒に連れてきたかった。「もう一度函館に行きたいなあ。」と言っていたのに。
父が死んで、はや20年になります。
サブちゃんの「はるばる来たぜ函館〜〜逆巻く波を乗り越えて〜〜〜」の歌を歌いたくなりました。
出来ることならたった一回でいいから、生きた父ちゃんに会いたいものです。