コラム―散歩道
飯綱賛歌
長野ではじめて登った山
私が飯綱山に始めて登ったのは、大学の三年生のときです。当時、初めて長野を訪れた私に、夫が紹介した「長野の顔」は、善光寺ではなくこの山でした。夫らしい選択です。れんげつつじがとても美しかった。
長野はずっと私の憧れの地でした。小学校の頃は、地図帳で茶色一色の長野県を見ては山また山の景色を想像し、一体どんな山奥なのだろうと想像していました。
そして山の写真集を眺めるようになり、なだらかな東北の山とは違って荒削りで男性的な山にいつかは登ってみたいと憧れは年毎に膨らんでいきました。その長野で最初の登山となったのが、飯綱山でした。
ふるさとの山
飯綱山は1917メートル、ロシア革命の年と同じ数字なので、しっかり覚えてしまいました。登山口から山頂まで2時間ほどですから、市民には故郷の山として親しまれており、長野市内の小学校の学校登山もこの山です。
我が家から登山道入り口まで、車で三十分の距離です。朝早く出れば、午前中には下山できますし、登山道もしっかり整備されているので、手軽に登ることができます。春を迎えての私の山登りは、まずこの山で始まることが多いのですが、足慣らしに丁度良いからです。
飯綱の魅力
三合目ほどの「駒つなぎ」までゆっくり歩きます。ここまでは楽なので、ついペースを上げたくなりますが、後で響くのでじっとがまんです。
駒つなぎでリュックを下ろして一休みです。昔はここで馬をつないで休ませた場所だと言われており、ちょっとした広場になっています。ここまで四十分くらい。下山の人が「ご苦労さん」と声をかけてくれます。
次は五合目が目標です。五合目はこの山唯一の水場であり、「山頂まであと一時間」の立て札を見ながら飲む清水は「おいしい!」の一言です。ここで私はいつも、付近の九輪草の株を確認します。この花は私が知る限りでは、飯綱ではここだけにしかありません。それも数が限られていますから、見つけるとほっとします。
五月頃に来ると、里では終わったフキノトウが残雪の中から顔を出しているのもこの辺りです。真っ白な雪の中の黄緑色は、息を呑む鮮やかさ、早春をもう一度楽しめるのも嬉しい。
そこからもう少し行くと、山葡萄が道を横切って茂っており、秋はたわわに実をつけます。一度この実でぶどう酒を作ったことがありましたが、ガス抜きを怠ったためびんが破裂、ひどい目にあいました。
その後、熊の大切な餌だから採らないほうがいいと友人に忠告され、「なるほど」と納得、以来、見て通るだけにしています。
もう少し登りつめると突如として右手方向に視界が開け、自然に足が止まります。吹き上げてくる風を受けながら、歩いた甲斐があったと満足感で満たされるひと時です。足元からはるか下方に広がる斜面は、シモツケソウのお花畑です。七月末ごろは一面ピンクに染まり、いつまでも眺めていたいと、足が動かなくなってしまうところです。
夏にはここから山頂までの道は、何十種類のお花の道です。「戸隠神社中社コース」より、少しきついけれどこの「一の鳥居コース」が好きな理由は、このお花畑に出会えるからです。
ミヤマオミナエシ、オダマキ、オトキリソウ、クガィソウ、トラノオ、ナデシコ、コケモモ・・・。
さて「やれやれ、やっと山頂に着いた」と思うところは、実は本当の山頂の手前のこぶ、そこから少し尾根を歩いて本当の山頂に到着します。晴れていれば、北アルプスが一望に、富士山も望め、日本海もはるかに広がっています。
手軽な山といっても、約二千メートル、いつかの五月五日の親子登山の時に、吹雪かれてテントをはったこともあるので、あなどることはできません。
平和の凧揚げ
私の子どもたちがまだ小学生のころ、地元の共産党の後援会が飯綱登山を行いました。子どもたちと一緒に「平和の凧あげをしよう」との計画でした。
しかし一生懸命作った和凧は、子どもも大人も何度も夢中で走りましたが、地面をこするばかり、お腹を抱えて笑いました。山頂と間違えるこぶと本当の山頂の間の尾根が、いい「滑走路」になるのです。
ゲイラカイトはよく揚がりました。糸をつないでどんどん長くし、長くしただけ面白いように揚がりました。とうとう、豆粒になり、さらに小さく、ごま粒ほどになり、ついには糸を離してしまったので、消えて見えなくなりました。平和の願いを世界の果てまで届けるかのように飛んでいきました。
そして今「平和凧」は、世界中のあちこちで高くあがっています。「命こそ宝、アメリカはイラク戦争をやめよ。日本は憲法九条をまもれ。二十一世紀は戦争のない地球を作るため、世界はひとつになって力を尽くしましょう」と。
日本でも、七月三十日に開催された「九条の会・有明講演会」には全国から九千五百人が集まって、平和の大きな大きな凧を上げ、世界を激励したのです。
一年前に、こんな大きな平和の共同の輪ができるなんて、想像できたでしょうか。
(2005・8・1 記)