コラム―散歩道
テレビドラマ「ハルとナツ」
感動のドラマでした
放送80周年記念のNHKドラマ、橋田寿賀子の「ハルとナツ」が10月の初め5日間に渡って放映されました。
新聞紙上の宣伝で興味を持ち、一日目から引き込まれ、ついに5日間、かかさずに夜9時にはテレビのまえの人となりました。
日本のブラジル移民を扱った物語で、ハル役の森光子さん、ナツ役の野際陽子さんの熟練の演技が全体を引き締めていました。それぞれの配役の役者が、それぞれ的確な配置ですばらしかった。
移民したハルたち家族と、出発の時のアクシデントのため日本に残されてしまったナツの、戦争をはさんだそれぞれの苦難の人生を描き、ブラジル移民した人の当時の生活ぶりをリアルに再現した迫力の作品でした。
70年ぶりに再会を果たしたハルとナツが、70年の空白を埋めて、深い誤解を解いてゆき、最後はすべてを失ったナツが、ハルの誘いで70年前に家族と行くはずだった「ブラジル移民」を決意し、ハルの大家族の待つサンパウロへと旅立つという、感動的な締めくくりでした。
ブラジル移民問題をあらためて考える
日本の移民政策は1868年から始まっていますが、ハワイやアメリカなどから締め出されて、矛先をブラジルへ向けてゆきます。
1888年、ブラジルは共和国となることで奴隷制が廃止されます。それに伴い、世界的なコーヒーブームで需要が高いのにコーヒー農園の労働力不足に悩まされていたのです。
1908年、約800人を乗せた笠戸丸がサントスへ向かいますが、これが最初のブラジル移民船でした。
1927年には海外移住組合法によって、国策としておこなわれるようになりました。
戦前の1908年から1941年までの間に19万人が、戦後1952年から1973年の移民終結になるまの間には9万人、合計25万人が移住しています。
不況や失業で食べてゆけなくなった人たちが、ハル一家のように、別天地での生活に希望を託して移住し、多くの人が、「3年も働いて儲けたら帰ってこよう。」と思っていました。
そう考えて当然なくらい、お腹一杯食べれて、すぐにお金がたまるという夢のような宣伝がなされたのです。
現実は、奴隷と変わらない労働を強いられ、コーヒーの実りも予想の半分、瞬く間に借金地獄に陥り、帰国などとんでもない、食べることにもことかく生活が待っていました。
あまりのひどさに、ヨーロッパでは移民を打ち切ったほどでした。
そんな貧しさの中で、ドラマでは、ハルの兄はマラリアにかかり医者にみせることもできずに死んでゆくのです。
あれほど苦労で逃げ出したかった日本での生活も、「ナツはブラジルへ来なくて良かった」とハルに言わせるほど、移民の生活は過酷でした。それゆえ、農場を逃げ出した人も数知れないとのことです。
ドラマでは、ハル一家も耐え切れず逃げ出しています。
現在では、140万人の日系人が住んでいるそうですが、 ハルの孫が、「おばあちゃんがそんな苦労したなんてしらなかったよ」と言っているように、3世にもなると歴史を知らない若者が増えてきているそうです。
ララ物資にブラジルの日本人も
今、ブラジルの2世、3世の人が、20万人も出稼ぎ労働者として日本に来ています。そのうち2万人は長野に来ているのです。
かつては、ブラジルへ出稼ぎに行った日本が、今度は受けいれる側になっています。
私とブラジル移民した人とが関係があるなんて、今までこれっぽっちも考えたことがありませんでしたが、今回、「ハルとナツ」に刺激されて調べたことの中で、「ララ物資」にブラジルの日本人も大きな協力をして、戦後の日本の窮地を助けてくれたと知って、自分の無知が恥ずかしく一挙にブラジル人に親近感を覚えたのでした。
「ララ物資」の「ララ」は「アジア救済連名」のことで、在米日本人の浅野七之助氏が中心になって始まった全くのボランテァによる日本人救済活動でした。
アメリカだけでなく南米の日系人にも広く呼びかけられて、ブラジルでも大きな運動になったとのこと、また幅広い心ある人の協力での大量の救援物資で、当時日本の6人にひとりが世話になったとの記録に、私もそのひとりであることに感謝の念を抱いたのです。
そうしてもうひとつの私の誤解も解けました。
私はエッセー「時計の下のあかずきんちゃん」で「脱脂粉乳はアメリカが日本の子どものために贈ってくれたと先生は教えてくれたが、後で家畜のえさを押しつけて買わせたのだと聞いて、がっくりきた」との文章を書きましたが、どちらも正しくはありませんでした。
昭和22年7月31日の001回の国会の議事録を見ると「ララ物資」への感謝決議議案が出されています。その内容の中に、乳製品が多く送られてきたこと、それにより子どもたちの栄養不足に役立ったことが記録されていました。
脱脂粉乳はアメリカが贈ってくれたものでもなく、押し付けて買わせたものでもなく、日系のアメリカやブラジル、また世界中の方々の善意の贈り物だったのです。
移民した日本人が、どんな思いをこめて救済物資を送ってくれたのか考えると、熱いものがこみ上げてきます。
移民政策は何のために
しかし、何のために移民政策が取られたのか、不況、失業、農業対策だけでは、いまひとつ私の胸に落ちません。日本の政府側の当時の資料がなくなっているためもあります。
ブラジルの研究家木村快氏によれば、綿花や工業ダイアモンドなどの、日本のための貴重な資源を調達するためのあったのでは、との指摘もあります。
日南株式会社や現地法人であったブラジル拓殖組合を通して調達したとしています。
実際、三井系は南部航路を独占し、野村系、三菱系はそれぞれ農場を持っていたとの資料もあり、日本の資本も絡んでいることは明らかです。
また、アリアンサ移住地も、移民を考えるポイントだと思います。
昨年、長野県知事の田中康夫氏がサンパウロ州のアリアンサ移住区の開拓80年祭に出向き、挨拶をし、そこで田中氏の考えを話しましたが、長野県とアリアンサの関係の本当のところを私も知りたいところです。
アリアンサ移住区は長野が深く関与して開拓されたところで、他の移民と違い、国策であっても自らの意思で夢を持って入り、ひとつの理想を目指して開拓したと現地の人は言っています。今でも誰もが日本語を学び話せるように日本語教育も行っており、日常的にはポルトガル語の単語も少し交えながらも、日本語を使うとのことです。
今問題になっているのは、「アリアンサ信濃村」は郷党的親睦思想がそこにあり、後の満蒙開拓団に繋がるものであると、山川出版「長野県の歴史」、大槻書店の「満蒙開拓、青少年義勇軍と信濃教育会」が書いたことで、現地からは事実と違うとの抗議があがっていますが、歴史的検証がどうなっているのか、わかりません。
「アリアンサ信濃村」は存在せず、県ごとにまとまって部落を作った事実はないと、現地では語っています。
現地からの抗議に対しての回答はまだないそうですが、満蒙開拓団を日本一出した長野県の県民としては、事実経過を知りたいと思っているところです。
いずれにしても、「ハルとナツ」は、多くのことを再認識させてくれたドラマでした。
何より、歴史を知ることは、今まで無関係と思っていた国の人とも、友好関係の絆を見出すことだと実感しました。
そして今の日本の自民党の政治・経済の施策を続けていったなら、不況は底なし沼、仕事はますますなくなる一方です。また大量に移民せざるを得ない情況がこないと、一体誰が言えるでしょうか。