コラム―散歩道

愛にあふれた医療を
映画「シッコ」がアメリカ医療を告発

 ウイリアム・ムーア監督の映画「シッコ」は、アメリカ医療を告発したルポ、衝撃的な作品だった。
 最初の画面で映し出されたのは、交通事故でバックリ割れたひざの傷を自分で縫合している男の姿だ。次に一本百数十万円の縫合手術代がだせず、切断した2本のうち薬指だけを選んだ人、手術を受けることができず死んでゆく人、果ては、入院費が払えない人をタクシーに押し込み強制退院させ、路上に捨てて行く・・・・・心が凍りついた。

アメリカに国民皆保険制度はない
 アメリカには国民皆保険という制度はない。医療保険会社が唯一の保障だが、掛け金を払えない国民が圧倒的に多い。しかも、入会にも、厳しい審査があって、過去にちょっとした既往症があればもう、オミット。
 保険会社に雇われている医師の仕事は、被保険者をいかにして保険適用からはずすかということだ。国家のために犠牲的な働きをしたひとにも容赦はない。
 9・11自爆テロのとき、レスキュー隊で人命救助に奔走した女性は、現場の粉塵のために呼吸器を病み、激しい喘息に苦しんでいる。
彼女に保険が適用されなかった理由は、5年前の「膣カンジダ感染」だった。カンジダはかびの一種で抵抗力が弱っている時、ちょっとくっつくだけの「かゆいかゆい」の症状だ。これが理由とは!
 保険会社の医師が裁判で証言する場面が映し出される。「いかに保険を受けさせないか、その実績で報酬が決まる」人の命と引き換えに多額な給料を手にする罪悪感から、職場を去る医師もいた。
 日本政府の目指している医療制度はまさにこのアメリカ型ではないか。激しい戦慄が走った。

キューバの医療
 アメリカの医療と比較して紹介されたのが、イギリスやフランス、キューバの医療、どこも無料だ。
特に、キューバは興味深い。アメリカで医療を受けられなかった人たちがキューバへ脱出し、そこで受けた手厚い医療に涙する。キューバでは名前と生年月日を記入するだけ、国籍も問われず、必要な検査は全て無料で受けられる。レスキュー隊の彼女も、アメリカでは数万円だった薬をたった6円で手に入れることができ「かばん一杯買ってゆきたいくらいだ」と感涙にむせる。
 実は私は「シッコ」を観る前に、「世界がキューバ医療を手本にするわけ」(吉田太郎著 築地書館)を読んでいたので、映画でのキューバの紹介がストンと胸に落ちた。
 キューバの医療の歴史は深く長い。例えば、インターフェロンで言えば、ヨーロッパ諸国が生産力を上げてきた1980年前は、キューバが世界第二位の生産国だったほどの国だが、アメリカの圧力の下での苦労とそれを跳ね除けて、独自の発展を遂げる並々ならぬ努力があった。
 キューバ医療の特徴は「ファミリードクター制度」だ。どこの町でも路地裏に医者がいて住民と共に暮らし、日常的な生活を通しての予防医療に力を入れ、成果を上げている。これも貧しさと医師不足から生み出された知恵の結晶だ。
ラテンアメリカとの連携にも目をみはる。ベネズエラでは、自国で手術不可能な患者はキューバに送っている。旅費はベネズエラが、医療費は全てキューバが持つ。患者の負担なしの「奇跡の手術」。驚くべき事実、そして医師だからといって報酬が高いわけではないのだ。

 国境なき医療支援隊

 キューバの医療で驚かされるのが「国境なき支援隊」だ。支援隊は、命が危険にさらされているところにはどこへでも出かけてゆく。たとえば、7万5千人が死亡した2005年の10月に起きたパキスタン北部の大地震の被災地に、900人の医療支援隊を送り込んだ。厳寒の苛酷な環境に耐えられず、多くのNGOは立ち去り、数人の医師しか残っていなかった困難な地に、テントをはり、数ヶ月にわたり旺盛な活動を展開した。
 パキスタン出身の作家クリタ・アリ氏は「愛について新しい言葉を学びました。それはキューバです」と述べている。
 その上キューバは、ユニークな大学「ラテンアメリカ医科大学」を創設した。貧しい地域から、貧しい学生を募集、現在28カ国から受け入れており、なんとアメリカの青年もいる!アフリカ系ヒスパニック系などの人の住む居住地の貧しい人たちのための医療整備のためだ。
 衣食住は全てキューバの負担、学生の義務は、困難を立ち向かえる献身的な医師になることだけだ。キューバのお金で、後進国や貧しき人々のために働く医師を創出しているのだ。
 医療費削減のために医師を減らしてきた日本とは、何たる違いであろうか。

あきらめずに

私が言いたいのは、こうした医療を行なっている国があるということ、愛に満ちた政治は可能なのだということだ。
 大事なのは、あきらめないでそれを求め続けることだ。求め続けるにはエネルギーが要るが、仲間とはなんとありがたいものだろうか。その力を惜しみなく与えてくれる。
                 (2007・12・2 記)