コラム―散歩道
「間」は人を大事にすること
「間」の取り方は難しい
「間延び」とか「間がわるい」など言われるように、「間」というのはことの流れのタイミングの具合を表す、実にうまい言葉だなと思います。
私は訪問対活動のときに、「間」の重要性を感じます。
「振り返って「対話」の中身を考えると、実は自分だけがしゃべっており「あれ、あの方は何を言ったかな。『赤旗はけっこうです』だけだったのではないかな?」なんてことも結構ありがちなものではないでしょうか。私の反省も含めて、そう思います。
「党を語る」ことは、相手の話を聞くことが前提ですが、夢中になるとわかってもらいたい気持ち一杯で、結果として「正義」を一方的に押し付けることになってしまったりして・・・。
このごろ私は、訪問後、相手の方の言ったことを反芻する癖をつけました。記憶に残るようにと気をつけると、「間」が出てきます。
対話はキャッチボール、「どうですか」とお聞きして、相手が言葉を発したくなる一呼吸「間」を取って待つ気持ちはとても大事、それを一番教えてくれるのは、子どもたちです。
「間」が苦手の子どもたち
私は今も時々、発達相談の仕事をしています。障がいを持ったお子さんとの付き合いで、自分がいかにせっかちか、つくづく勉強させられています。
例えば、ADHD(注意欠陥多動性障害)と呼ばれる子たちは、ひとつのことに集中できず、遊びも次々と目移りし何でも散らかし放題、順番を待つことができない、最後まで話しが聞けず割り込んで勝手に話し始める、根気がない、気に入らないとパニックになって奇声を上げ、すぐ手が出る、常に走り回っているなどの症状を出します。
親御さんはもちろんのこと、保育園や学校ではお付き合いする先生のご苦労も並大抵ではありません。スーパーに連れて行けば、スーパー中を駆け回り商品にいたずらするので、買い物もままならない子もいるのですから。
でも、本人がわざとしているわけではない、親のしつけが悪いのでもない、中枢神経の障害のなせるわざなのです。
それが理解されていないときは、しかられることが多く「どうせぼくなんか」と自信をなくしている子も多いので、本当に悲しいことです。
人とかかわる力を育てる原点
この子たちの、行動を抑えることができない衝動性は、外からの刺激を受け止めて、そこから行動を起こすまでの「間」を取るところに、大変苦手があるからです。注意をそこにとどめておくことができないのです。
だから自分で自分に問いかける「内なる言葉」の学習にも弱さが出て、経験の積み重ねや、見通しを持って行動することにも困難をきたします。
この子たちが障がいの軽減してゆくためには、「間」を学ぶことが大変重要な課題になってきます。
かかわる大人は、言葉は、心に留まるようにゆっくり過ぎるほどにゆっくりとかけてあげること。行動も子どもにわかるように一つ一つの行程をゆっくりと行なうこと。見通しを持たせるために、わかりやすい一日のスケジュールも大事になってきます。「待つ」練習も大事、食事のとき「みんなが揃うまでちょっと待ってね」と即座に手を出さないようにするなど・・・・。
一方的な命令と押し付け、或いは速さを競うことは禁じ手です。言葉を心にとどめさせるためには「どうする?」「どっちにする?」と呼びかけ、ともに考える大人の姿勢が大事になってきます。
大人の「間」のある対応も含め環境を整えていけば、子どもは次第に変化をとげ、仲間に打ち解けて、目覚しい発達を見せてくれます。
「『間』とはなにか」とあらためて自分に問いかけると、相手の心をわかろうとする気持ち、寄り添う姿勢だと返事が返ってきます。
それにつけても、理屈でわかっていても、子どもに向かうときは葛藤です。いつまでたっても「あああ、自分はなんて未熟なんだろう」と思い知らされる日々です。
この子たちは私たちに、人としての育ち、つまり人とかかわる力を育てる原点を教えてくれているのではないでしょうか。まさに障がい児教育は教育の原点です。
時代の幕を開けよう
私の子どもが幼いとき「ゆっくりじいちゃんとぼく」という絵本を読み聞かせしました。「早く、早く!」の母親には、ジンっとくる絵本でした。
今はあのときよりも比較にならないほどひどい。他人のことなど気遣うゆとりも失いがちな生活が強いられています。
「人間」との言葉は、「人の間」、つまり一人では生きてゆけない存在、仲間とともに助け合って生きてゆく動物なのだということを現していると思います。
同時に「間」は、人と共にいて、人を大事にする思想が深く入っているのだなあと私は思っています。そして今、「人間」らしく生きる時代を切り開らける時代になったことを、興奮して受け止めています。
(2008・6・5 記)