コラム―散歩道
雪に思う
年末、やっと雪らしい雪が降り空気もきりっと締まり、冬の到来を実感しました。何もかも、真っ白に埋め尽くしてしまう雪を眺めながら、新しく来る年に思いをはせました。
今年は国民の連帯の力が雪のように降りしきり、人間の命を鳥の羽よりも軽く扱ってきた悪政が、雪の下で身動きできなくなるまでたたかってきました。春には、私たちが植えた希望の種が必ず芽生えることでしょう。
雪は幻想的で美しい、しかし、くらしにとってはそれでは済まされません。雪とのたたかいがどれほど厳しいものだったか、鈴木牧之が「北越雪譜」で如実に語っています。長野県の豪雪地帯、秋山郷の暮らしの記述も壮絶を極めています。山奥深く孤立したこの村に、今でこそ道が開け、楽に行けるようになりましたが、くらしは、今も雪とのたたかいであることに変わりはありません。
一方では、スキーや雪下ろし、除雪など生業にもなっているので、生活にぴったりへばりついてはなれない、共存する相手です。
雪に願いをかけた民話
子どもに読み聞かせた本の中でも、雪にまつわる作品は、長野に住み着き、雪となじみ深くなったので、ひときわ惹かれるようになりました。
「雪女」、「雪娘」は、雪の精が人間になってやってくる話です。
「雪女」は、「今日のことを言ったら殺す」と口止めをされていたのに、雪女との約束を破ってつい口を滑らせてしまった巳之吉の話。子どもも10人も授かり、仲良く幸せに暮らしていた夫婦だったのに、「雪女」だった女房のお雪は消えてしまいます。「子どもがかわいそうだから殺さない」と言い残して・・・父親と二人で暮らしていた巳之吉に、雪がつれてきたお嫁さんでした。
「雪娘」は、じさま、ばさまが冬ごもりに入るたびに「おらたちに子どもがあったら、冬ごもりもなんぼか楽しかろうに」と願っていたところへ、雪娘がやってきます。冬の間中、じさまとばさまは、それはそれは楽しく幸せに暮らしました。でも、冬ごもりもこれで終わるという日、嫌がる娘を無理に風呂にいれます。「あねえ、今日はおゆにはいてけせ。もっときれいになるだぞ」
ところが、娘はお湯の中で溶けてしまいます。じさまとばさまは、冬の来るのを待っています。また、会えるかも知れないと。
厳しく貧しい暮らしの中での願い事を、雪がかなえてくれます。かなった願いは雪のように淡く消えてしまうけれども、その願いの強さが、やさしい物語の中にしっかりとこめられているのではないでしょうか。
「かさじぞう」は大雪の大晦日の日に、じさまがせっかく売れたわらぐつのお金を全部はたいて、六地蔵のかさを買った話。傘は5つしか買えなかったので、最後のお地蔵さまには自分のかぶっていた手ぬぐいを被せてあげた。おかげで正月の魚もこんぶも何も買えなかった。ところが夜中、六地蔵がたくさんの品物を持ってお礼にきたのでした。
苦労もいつかは報われたい、との気持が伝わってきます。報われる手段は「善行」、これは庶民の素朴で全うな考えではありませんか。人をだます、貶めるなどは論外なのです。ここでもやっぱり「雪」が媒介になってプレゼントがありました。
「おしになった娘」
「おしになった娘」も正月が舞台です。「赤まんまが食べたい」と言う瀕死の娘、もりいのために、庄屋の蔵から米一升、あずき一升を盗んだ父親。もりいは元気になってうたいます。
「お正月はいいもんや
雪より白い米といで
赤いあずきばぶっこんで
あずきまんまくった・・・・」
父親は捕まって、人柱にされ殺されてしまいます。もりいはそれ以来、一言もしゃべらなくなりました。残酷な話です。
しかし、父親が盗みに入った時、雪は、父親の足跡を消そうと惜しみなく降り続けたに違いない。ここでも、庶民の雪へのひとしおならぬ思いを私は感じるのです。いやなものを消して、きれいにしてくれる清らかなもの、そう考えていたのではないかとさえ思います。
たくましさを受け継いで、大きな一歩を
「自然と共に、地を這って生きてきたのはわたしらだ。だから自然は決してわたしらを裏切らない、雪だって味方してくれる」
生かさず殺さずこき使われ、自分で作った米を食べることさえ許されなかった農民たちの、そんな叫びが聞こえてきます。庶民の素朴さ、たくましさ、そして楽天さを、私は民話から感じるのです。
そのたくましい楽天性は、私たちに脈々と受け継がれてきました。私たちは今、自分たちが主人公になる新しい時代を少し先に見すえるところまでやってきました。それを切り開く力が満ちてきています。
もりいのように飢える子が一人もいなくなるように、貧しさと戦争のない世界を作る大きな一歩を踏み出すために、総選挙で共産党を飛躍させたい。
それにしても雪が降ったのは一瞬のこと、暖冬には不安を抱くこの頃です。地球を健康にしなくては、雪の民話も深く味わえないではないですか。自然との共存も緊急な課題です。
(2008・12・30 記)