コラム―散歩道
韓国のたび
独立運動発祥の地 チェルラドから
日本帝国主義が朝鮮半島を併合してから、来年は100年目を迎える。私は、日本の侵略の傷跡をたどる5日間の韓国の旅に出た。北朝鮮との国境、ソデムンの刑務所、ナヌムの家、三・一独立宣言の地などを経て今日は4日目、チョンジュから下ってチェルラド地方の井邑へ向った。目的は 「東学農民運動歴史館」の見学だ。
チェルラドは、広大な農地の風景が広がる韓国の穀倉地帯だ。
ここが、韓国の農民一揆、三・一独立運動へとつながる韓国革命運動の発祥の地、朝鮮が日本の侵略に対し、始めて抵抗のたたかいを起こした地でもある。
農民蜂起と日清戦争の勃発
1875年、日本は武力で韓国に侵入し、不平等条約を押し付けた。それは当時欧米諸国から日本に押し付けられた不平等条約よりも、もっとひどい内容だった。
それまでも、農民は不正な税のとりたてにより、非常に貧しい生活を強いられ、記念館の写真にも、米俵を前に、あばら骨が憂く出るほどやせこけた農民の姿が映し出されている。自分たちが作った米を食することもできず飢えている姿だ。たびたびの農民一揆は起きていたが、さらに事態は悪化した。
不平等条約の項目の中には「朝鮮からの米輸出の自由」「関税の免除」が含まれていた。米、まめ、金、銀などを安く買い叩かれ、代わりに入ってきたのは、絹織物、漆器、時計・・・などであり、もうけたのは商人や権力者であり、農民はさらにどん底へと突き落とされていったのだ。
農民蜂起の指導者だったチョン・ボンジュンの「百姓は国家の根本である。根本が衰えるなら国家は必ず滅びる」との言葉は、そのまま今も変わらない本質を語っているし、今、民主党連立政権が進めようとしているFTA交渉は、根本は当時と同じ問題が流れているではないか。国を売り、農民をどん底に落とし入れるものだ。
さて、過酷な搾取に対し「すべての人は平等」を根本思想とする東学で結ばれた「東学農民運動」が広がっていったのは当然のことといえるだろう。蜂起の直接の原因は、新しい「水税金」がかせられたことにあったが、背景には日本軍国主義が深く関与していた。
指導者はチョン・ボンジュン、2回の大きな蜂起を起こすが、最後は朝鮮官軍と日本軍によって、虐殺とも言える殺戮で全滅させられた。新型武器を持つ日本軍千人朝鮮官軍は1万、それに対して農民軍は2万人だった。チョン・ボンジュンは処刑された。韓国人民が、初めて抗日のたたかいを起こして場所である。この農民革命を契機に、清を退け朝鮮を我が物とするために日本は日清戦争を勃発させた。
「偏見」から「友好」へ
農民の全国蜂起は150万人、65箇所とも言われているが、多くはチェルラドに集中している。
韓国の人は、この偉大な革命の地「チェルラド」には偏見があるそうだ。「恐ろしいところ」「あか」と教え込まれてきたという。
ガイドさんも現地を訪れ事実を知るまでは、「韓国ではアカは敬遠されます。チェルラド地方の方言を聞くだけでも嫌悪感、行きたくもないと思っていた」が、「事実を知って涙が止まらなかった」と話してくれた。
共産主義に対する反発の原因は、「共産主義」の名を借りた軍事独裁政権「北朝鮮」への拒否感と、この最大の農民革命運動を、時の政府に抵抗したものは反逆者として教育されてきたことにもある。日本の赤攻撃とまったく同じだ。
しかし、やっとチョン・ボンジュンらの行動が「乱」でなく「革命」として認められてきたという。そして、法律から「共産主義禁止」も消えて、韓国は新しい時代に入ってきた。志位委員長の訪韓も、韓国民と私たちの友好を深める大きな役割を果たしていた。
真の友好のために
生々しい歴史の資料をつぶさに説明してくれたのは館長の柳太吉(リュウ)さん、実はリュウさんは、東学農民の末裔だと知った。
最近、日本のNHKがこの記念館に取材に入ったそうだ。その時「リュウさんは、東学農民運動の末裔として反日感情は無いのか」との質問を受けた。彼は「日本人が悪いのではない、侵略者が悪いのだ」と応えたという。
日本が侵略戦争を深く反省し「九条」を堅持するなしには、アジアとの友好は築くことができない。私は、新しい時代を模索している日本国民と共に、沖縄の基地を無条件撤退させ、遠くない将来にアメリカとの軍事同盟は解消し友好条約を結ぶ大仕事を進めなければと、共産党員としての誇り高く、リュウさんの言葉を深く受け止めた。
会館には、私たち以外誰も会館を訪れている人はいなかった。
入り口に来館名簿があったのでめくって見たが、日本人の訪問客はいなかった。ソウルから高速に乗っても約4時間、広い田園地帯にぽっつりと立っている記念館だから足を伸ばすのは大変なことだろうが、残念なことだと思った。
私は、思いをこめて、自分の名前を記載してきた。
(2009年11月24日 記 5日間の記録はホームページに記載)