コラム―散歩道
笑うということ
「また森へ」
「また森へ」(エッソ・作・絵)、これはむかし子どもによく読んであげた絵本のひとつで、男の子が森で動物と出会ったときの話しです。
男の子が森で、動物たちがお得意技を競っているところに出くわしました。キリンは長い首をグンと伸ばして木の葉で顔を見えなくしました。ライオンは地響きがするくらい大きな声でほえました。オウムは羽をパタパタさせながら、蓄音機みたいにしゃべりまくりました。「うん、なかなかいい!」と長老は評価します。
子どものゾウは逆立ちをして鼻でピーナッツをつまみました。そこで、男の子はマネをして鼻でピーナッツをつまもうとするのですが、おかしくて笑ってしまいます。みんなが目をまん丸くして男の子をみました。「これが一番いい!誰にもできない」
「ぼくはただ笑っただけなんだよ」という男の子にお父さんはいいます。「お父さんだって、ほかに何もできなくていいから、おまえのようにわらってみたいよ」
「笑う」って、そう、人間だけのものなんだよね、そしていつまでも子どものときのように何の屈託もなく笑っていたいと、郷愁をおぼえます。
笑いは二つの目から
人間ならだれでも自然に笑えるようになるのか、というと、そうではないのです。歩行とか言葉のように、生まれたあとで獲得してゆく人間らしい能力のひとつなのです。
生後間もない赤ちゃんは眠りながらもにこっとする「天使のほほえみ」をみせますが、これは外の刺激で起こるのではなく内なる反射で「おはしゃぎ反応」と呼んでいます。2ヶ月も過ぎると人にあやされて、それが嬉しくて笑うようになります。それも不思議なことに、二つの円い目を見て笑うのです。三角ひとつでも四角でも笑わない。二つの丸の持つ魅力は向かい合う関係です。暖かくだっこしてくれ、優しく言葉がけをしてくれる人が、「ぼくを見つめてくれる」そのまなざしから、笑顔を学んでゆくのです。
障がいがあると、普通なら自然に身につきそうなこの笑う力を獲得するのが、実はとてもしんどいのです。「おはしゃぎ反応」が弱く、「おとなしくて手がかからなかった」子が多いのです。
重い知的障がいのAちゃんもそうでした。でも、障がいのない子の何倍も何倍もあやしてかかわると、ちゃーんと笑顔を出してくれました。まわりの喜びは、苦労した分、何倍もあります。笑うことは、生きる意欲を生み出す源です。
どんな重い障がいがあっても、時間はかかるけれどどの子も同じ道筋をたどって発達してゆく、そして可能性は限りがないのです。
こちょこちょすればわらうかな?
この頃気になるのです。保育園の子どもたち、「また森へ」のぼくのように笑えない子が増えているなあと。表情が固くて、緊張している子も多いです。
先生に聞いてみると「そうなんです。私たちも気になっているのです。ワッハッハという笑いが聞こえない。こちょこちょすれば笑うかな?」
「この子は母子家庭、お母さんは7時すぎまで帰れない。週何回かは夜、子どもを置いて働きに行く。学校に行っているおねえちゃんがみています。パートだから子どもが具合悪くても休めば首を切られる。必死です」
時間的ゆとりのあるお母さんは? 「派遣切りで失業中。イライラしています。保育料も滞っています」
あああ、子育て中の若い方は、みんな五十歩百歩の生活を強いられているのではないでしょうか。「子どもとお母さんを支えるには、保育園で何ができるのか」と真剣に取り組んでいる先生も、同じく必死で働き子育てしているお母さんです。
年寄りは知恵、子どもは笑い
子どもの笑顔は周りをほんとに明るくし、雰囲気も丸くしてくれます。そして子どもはお年寄りがだいすき、お母さんにしかられたときに優しく受け止めてくれるから。時々内緒で、甘い御菓子をくれるから。掛け値なくかわいがってくれるから。
お年寄りは知恵袋。子どもは笑いの源。若い者は働き手。知恵と笑いと労働力が豊かにあふれるくらしは命を大事にはぐくんでくれる、どんなに重い障がいのある子も、しっかり育っていく事でしょう。
政治家の条件は「美しく笑える人」、どうでしょう。
魔が差してボタンを押してしまった人や、1500万円の子ども手当てをもらっていても「知らなかった」人、は、あきれはてたブラックユーモア。小沢氏にいたっては、笑えない。いい加減にしてほしい。
テレビで見るこの人たちの笑顔、美しく思わないでしょう?
(2010年 4月30日 記 )