コラム―散歩道

他人の目

ある青年の入党の壁

 先日20代の青年が入党してくれました。決意するための最後の難問が「ぼくにある3つの壁」でした。「ひとつは同居している親が違う考えだということ。二つ目は友人がぼくから離れていかないかと人の目が気になる。3つ目は先輩のような活動がぼくにできるのだろうかとの不安です」
 私は、彼の一つ目と二つ目の壁の説明に、暉峻淑子著の「豊かさとは何か」の一節を紹介しました。
 「商社マンの親についてドイツに言った子が、ペーパーテストは優秀なのだけど、成績表は良くない。親は疑問に思って先生に聞いたそうです。先生は『知識は自分の考えを培うために必要なもの。あなたのお子さんはゼミでは自分の考えをきちんと言えない。何のために勉強しているのですか』と応えたそうです。自分の考えをきちんと持って、考え方の違いを認めて話し合いできる力こそ民主主義の原点、これからを生きる若者にはその力を大いに期待しますよ」彼は、3つを乗り越えて入党してくれました。

「ちがい」は当たり前

 テストの点数だけで人格さえも決めるかのような日本の教育は、子どもにすっかり自信を失わせ、その上厳しい管理教育のせいで、こどもは「違い」をとても恐れています。「同じ」が「安心」、でも集団の中にいながら、他人の目を気にして孤独を感じて疲れている子がなんと多いことか。

 彼の「壁」も、そんな教育がもたらした「産物」なんだろうか・・と思ったことです。これって、実はとても恐ろしいことです。考えを押し殺し、自分の頭で考えることをやめたとき、どうなるか。私にはあの忌まわしい軍国主義教育が浮かんできます。

 でも私は、驚くほど多い不登校の子どもたちにから、個性を認めない教育への「抵抗」の力が伝わってくるし、自分の「壁」を打ち破った青年には、まぶしい未来を感じます。
 今や世界はひとつになろうと動いています。違いはあってあたりまえ、言葉も生活習慣も宗教も文化も、たどってきた歴史もまったく違う民俗が、違いを尊重しながら対話を進めてゆくことこそが、新しい世界を切り開く条件、個性を花咲かせないで、どうして世界の人と交わって行けるでしょうか。

メダカとドジョウ

 こどもがともだちとの「ちがい」を学ぶには、苦労があるのです。他人と融通の利く人間関係をつかんでゆくのは、やっと年長さんになったころです。
 例えば2歳の時は「大きい」と「小さい」2つの世界だけ、「中間」が分からず世界の中心は「この私」。だけど、「わがままだけでは通らない」と教えてくれるのは友達だ。さんざんぶつかりあいながら「イエス」と「ノー」だけでは割り切れないこともあるとだんだんわかってゆきます。年長になれば「◯ちゃんは乱暴で嫌いだったけど、ぼくに順番を譲ってくれた」と、友達を多面的に見るようにもなります。だから反省する力もつき自分の意見も大切にできるようにもなり、違いを乗り越えて仲間を作ってゆく土台の力がたくましく育ってきます。
 「木登りはかなわないけど、虫博士はぼくだ」と、みんな「メダカ」だと思っていた友達が、実は「ドジョウ」や「フナ」だったと悟って「メダカの学校」を卒業したころ、ピカピカの1年生になるのです!!

 金子みすずは「みんなちがって みんないい」とうたいました。

   わたしが両手をひろげても お空はちっとも飛べないが
   とべる小鳥はわたしのように 地べたを早くは走れない
   ・・・・・・・・・・・・・・

 ピカピカの1年生になるころの子どもは、金子みすずの歌の真髄を身につけているすごい存在なのですなのですが、 実はこの頃も「他人の目」をとても気にする年頃なのです。

 「今日うれしかったこと。こどもだけでお風呂には入りました。風呂上りのあとの風呂場を見てうれしくなりました。手ぬぐいはきっちり絞ってあるし、おけもほかのものもきちんとしていて、次の人が気持ちよく入れる状態でした」
 「お母さんのノートの『うれしかったこと』をみんなの前で読んであげて『信ちゃん、素敵なことだね』とほめてあげたら、どうしていいかわからないしぐさでした」
 これは私の娘が年長児のときの記録です。先生は、ちゃんとコツをつかんでみんなの前で評価してくれました。そう、誇り高き年長さんのプライドをくすぐるほめ方、さすが先生はプロです。

 「他人の目」を気にしているけど、これは、自己主張と自己肯定感を磨くためには大事な経験、それに支えられて「みんなちがってみんないい」との考えが育つのです。この純粋さを「みんな同じがいちばんいい」にねじ曲げてしまわないように、私は夏の参議院選挙「10年目の国政挑戦」のたたかいを思い起こし、民主主義の考えがまっすぐに育つ社会を作りたいしたいとの希求をいっそう強めています。

            (2010年12月1日  記)