コラム―散歩道

年頭に思う2つのこと

健康を過信しないこと

 昨年の12月半ばから正月にかけて、ひどいセキと微熱ですっかり体調を崩してしまいました。元旦には、恒例の善光寺前での街頭からのご挨拶は元気にやれたほどに回復したのでホッとしたのです。ところが2日、突如40度近い熱に襲われて、結局7日までうんうんとうなりながらの寝正月となってしまいました。3年日記を見ると、昨年も1月8日から約1ヶ月間ひどいジンマシンに苦しめられ、第25回党大会中もステロイドで何とか抑えながらの苦しい参加だったことでした。月並みですが「健康第一」と思いました。健康への過信は捨てます。

生きる執念

 中国の古い言い伝えでは、4つの人生の節目が色で分けられています。まずはお馴染みの「青春」です。次は「朱夏」、続いて「白秋」、最後は「玄黒」です。私は「白秋」に入るのでしょうか。夜が白々と明ける様を思いうかべると「白」は輝きの色ですね。子育ても終わり新しい自分の人生を歩んでいる「輝く秋」、なかなかすばらしいと思います。さて「玄黒」を生き抜く人が「玄人」です。いずれの年代でも「ほんまもの」と呼ばれる人は、どんな生き方をしている人なのでしょう。
 心理学者の秋葉英則氏は「ほんまもの」の条件をいくつか挙げていますが、その筆頭が「生きることに執着している」ことです。「命どぅ宝」ですね。
 かつて獄中にあった市川正一同志は、栄養失調で歯の抜けた口に米粒を指でつぶして運んで生き抜こうとしました。秋葉氏の言わんとする「生きる執着」と市川同志の革命への執念の姿が重なります。
 「今、国民の生活苦は深刻。古い政治の枠組みに限界がきていよいよ新しい政治を切り開くとき。がんばりぬくためにできるだけ健康でいるために努力するのは党員として大事なことだ」それが、年頭に心に決めた第一の課題でした。

魯迅に学ぶ

 熱の小康状態の時に、魯迅を読みました。非常に感銘を受けた一編がありました。短編「小さな出来事」です。短編も短編、4ページだけの作品です。しかし、このたった4ページで語られた魯迅の人権思想の原点は胸を打つものでした。魯迅が北京に出て6年目の1917年、36才のころの経験です。

「ちいさな出来事」

 朝早く人力車に乗って仕事に行く途中で、いきなり歩道から飛びだした女がいた。髪は白髪まじり、服はおんぼろだ。車夫が上手によけたのだが、服がかじ棒に絡まってゆっくりと倒れ込んだ。女はうずくまっている。車夫は車を止めた。「私」は「女がけがをしたとは思えないし、他に誰も見ていないのだから、車夫はおせっかいな奴」だと思った。「何ともないよ、早くやってくれ」。しかし車夫はお構いなしに「どうしたね」「けがをしたんだよ」という女を起こし、少しもためらわず前方の派出所まで支えて歩き出した。「私」は「どうせ狂言だ・・」等と思ったのだが、「ふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかもそれは私にとって一種の威圧めいたものに次第に変わっていった。そしてついに私の防寒服に隠された私の『矮小』を絞り出さんばかりになった」
 「別な車をさがして・・・」と言いに来た巡査に、「私は反射的に外套のポケットから銀貨をつかみ『これを車夫に』」とわたす。
 「私は歩きながら考えた。さっきのことは別にしても、この一つかみの銀貨は何の意味か。彼へのほうび?私が車夫を裁ける?私は自分に答えられなかった」
 「この出来事は、いまでもよく思い出す。そのため私は苦痛に堪えて自分のことに考えを向けようと努力することになる」「この小さな出来事だけが、いつも眼底を去りやらず、時には以前に増して鮮明にあらわれ、私に恥を教え、私に奮起をうながし、しかも勇気と希望を与えてくれるのである」。
 最後の文章が、漣のように繰り返し私の心を揺さぶります。あの偉大な魯迅の、小さな出来事をいつまでも心の痛みとする感性、まっとうな「ひと」であろうとする真摯な姿が私を感動させるのです。魯迅が人間として身近になり、そしていっそう偉大な存在になりました。「自分はどうか、『小さな出来事』は私にも始終あるはずだ。恥とする感性さえも失ってはいないだろうか」と反芻したことです。「魯迅に学び、心に豊かさを深くはぐくむ謙虚な生き方をわすれまい」私が二番目に心に決めた課題はこのことでした。
 秋葉英則氏が「ほんまもの」の条件で次に上げていたのは「何かにこだわって生きているひと」「もう一度あってみたいなあ、と思える人」でした。ついには「玄人」になることをめざして、今日も人生はあるのでしょう。
            (2011年1月7日   記 )