コラム―散歩道
ハーモニー
合唱の魔力
かつて長野合唱団の末席を汚していた私ですが、忙しくなってレッスンにもいけなくなって、団を離れてからもう何年になるでしょうか。
それでも小・中学校、高校の全国合唱コンクールのシーズンになると、車を運転しながら入選した学校の演奏を聴くのが私の楽しみです。何より美しいハーモニーに乗せて伝わってくる子どもたちの一生懸命さがいいし、専門家によるそれぞれの演奏への批評が的確なので、「ああ、なるほど」と演奏の聴き方やうたい方の勉強になるのです。
私のパートはソプラノでした。ソプラノは音域も高く旋律を歌うので目立つパートですから、まるで自己主張の強い女王様みたいです。だから他のパートの音をよ〜く聞きながらうたわないと「私だけよ!!」となってしまい、ハーモニーを壊してしまいます。お姉さん、お母さんのような役目のメゾやアルト、お兄さんやお父さんのようにどっしりとしたバリトン、バスの支えが弱いと、これまた土台が傾いだ家のように不安定で、安心して聞いていられません。気持がひとつになってハーモニーが響きあったときには至福の時、これこそ合唱の魔力です。
候補者はソプラノ?
「候補者ってソプラノかな」とふと思いました。共産党は現職議員も自分の選挙のように共にたたかいますから、「独唱」ではなくやっぱり「ソプラノ集団」の一人かもしれません。
でも、ソプラノだけで声を張り上げたって、支えがなくてはどうにもならない。反対に党支部や後援会、支持者の皆さんのパートにしっかり支えていただいても、ソプラノが立場をわきまえ、心をこめて旋律をうたわなければ、聴衆に気持は伝わりません。
合唱は聴衆と舞台との呼吸がピッタシ合うと、本当に気持ちよく歌え、持っている以上の力が出るものなのです。この一体感こそさらにハーモニーに磨きをかけてくれる源になります。
選挙も、有権者の皆さんと共に美しいハーモニーを作る作業のように思えてなりません。いっせい選挙は「歓喜の歌」の大合唱といきたいものです。
私は、今はアルトに変身しています。合唱と違って選挙活動は「七変化」でいろいろなパートに移動できます。やれることはなんでもできる創造的なたたかいです。
「歓喜の歌」
ところで、ベートーベンの「第九」の前にも合唱つきの交響曲の前例はあったのです。だけど「第九」から始まったと言っていいほど、この本格的な合唱付交響曲は大きな影響力を持ちました。シンバルやトライアングルの打楽器が使われたのも初めてのことです。初演は1824年、しかし、ベートーベンがシラーの詩に感動し、構想を思いついたのは1792年のこと、実に30年以上あたためていたことになります。
喜べ 喜べ 自らが陽光に
満ちた大空を翔るように
天空の壮麗な荒野を飛びかい
走れ、兄弟よ 君たちの道を
晴れ晴れと勝利にすすむ 勇者のように
ベートーベンはすでに聴覚を失っていました。それなのに「このシラーの詩を中心にすえた交響曲を」との挑戦に、私は、才能もさることながら、ベートーベンの生きる執念のすさまじさと、音楽へのこだわりを身震いするほど感じます。
音楽史の新しい局面を切り開いたものは、このしぶとさだと思います。ベートーベンは沢山の交響曲を作り、交響曲の独自の地位を高めました。このことは、貴族しか聞くことができなかった室内楽中心の音楽を大勢に聞いてもらう大衆的音楽へと発展させたひとつの大きな要素となりました。「第九」が私たちの魂を揺り動かすわけは、ここにもあるのだと思います。
でも気持をほぐし、時間の流れを緩やかにしてくれる「ノクターン」などの小曲もベートーベン、どちらも人の心のあり様です。形式を脱皮し、しかし、感情に流れない理性の音楽、私にはそこに魅力を感じています。
文化は戦争を超えて
「第九」の日本での初演は、1918年、鳴門郊外の坂東俘虜(捕虜)収容所でのことでした。第一次大戦で日本軍に収容されたドイツ人俘虜は5千人、そのうち1千人が坂東収容所に送られました。その俘虜たちよる演奏で、男性しかいなかったので女性のパートは歌えなかったそうです。
収容されたドイツ兵の中には優れた技術を持った人が沢山おり、パンやバター、チーズ作りや印刷技術まで、ドイツ文化が収容所から住民に伝わりました。音楽もそうでした。「第九」も初めて演奏されて、今では年末には日本中のあちこちで取り組まれるほどになりました。
思うに文化というものは、戦争にさえ断ち切られることなく国境を越えて人民の心をつないでゆくものです。
世界中の国が、お互いを尊重し合える時代は必ずやってきます。目の前のいっせい地方選挙はそこへ向う一里塚、しあわせを願う団結したしぶとさこそが、ハーモニーを美しく力強くどこまでも波紋のように広げてゆく力になるのではないでしょうか。
( 2011年 3月1日 記)