コラム―散歩道

震災から1ヶ月

 一瞬にしてすべてを奪った未曾有の震災から、今日でちょうど一ヶ月です。未だに片づかない瓦礫の山、日ごとにふえてゆく犠牲者の数、被災者の困難な生活、そして福島原発の先行き見えない危険性の報道のたび、「もっと早く対策を!」とジリジリします。私の故郷は宮城県石巻市なのです。

母の救出

 三月十一日、「石巻・・強い地震」とのニュースを聞きあわてて母のいる老人保健施設に電話しました。「施設内はめちゃめちゃですが、入居者の皆さんは怪我もありません」との職員の説明にまずはホッとしましたが、この後すぐに不通となりまったく連絡が途絶えてしまったのです。
 実家と連絡が取れたのは一週間後でした。姪が高台まで登ってかけた携帯でやっと通じたのですが、それも途切れ途切れで良く聞こえないのです。でも、みんな助かったとのこと、母の様態が悪いということはわかりました。

 母を長野に避難させることにしたものの、一般車両は高速には乗れません。夫の職場の協力のおかげで、宮城へ救援物資を運ぶ民医連長野中央病院の救急車両に夫と娘も乗りこみ、帰りに母を乗せてくることができたのでした。連絡を受けてすぐの十八日のことです。
 病院は待合室も廊下も患者であふれて野戦病院状態、母は治療まで回らず二日間の入院ののち、暖房も水も止まった老人施設にもどらざるをえなかったと義妹が話してくれました。
 虫の息だった母は医師である夫の付き添いで救出できましたが、劣悪な環境のもとで弱い人ほど日に日に弱り命も奪われていますから、私は身を切られる思いです。

長野県民のこころを積んで、石巻へ

 二十八日、私は、共産党長野県委員会が出した救援物資輸送車両に乗って石巻に向かいました。大町市の太田議員、平林市議候補とご一緒でした。「米が足りない」との要求に応えての「出動」でした。たったの一日二日で六百キロを超えたお米が集まったのです。リンゴや寝具組合から提供された暖かい布団、下着など、長野県民の暖かい心でマイクロバスは満載でした。

「いきているだけで・・・」

 石巻の共産党の仲間の最初の言葉は「生きてだよー」でした。「いがった、いがった!」と抱き合いました。犠牲になった党員、家族を失った党員もいたのに、皆さんは献身的に住民のために働いていました。当時はガソリンが全く手に入らず、被災者への物資を自転車で運んでいたというのです。なんとしても被災者を助けなければとの仲間の奮闘に、どんなに胸打たれたことか。

 食べ物を求めて店には長い行列ができ、九時間もの「牛歩」でやっと手に入れたときには、体は寒さでコチコチです。部屋を暖める灯油もないのです。
 実家の弟夫婦も避難所の配給でしのいでいましたが、一食に食パン一切れの半分と水だけ、だから救援物資のカップラーメンにさえ「生き返った」との喜びでした。トイレは使えず、排泄物は新聞紙にしてビニール袋で捨てていました。

 私の甥夫婦は、危機一髪で命が助かりました。車で移動中に津波に襲われ、車を捨てて近くのビルの2階に駆け上がって助かったのです。かろうじて土砂から救われた自宅の二階で暮らしていますが、食事は卓上コンロで作るが、風呂はない。一階はヘドロで埋まり、家を直すにも材料は手に入らない。この生活が何年続くのかと不安を語ります。「工場もやられたけど、被災当時を考えると何とか食べているし電気も通った。楽になった。友人がたくさん死んだ。葬式も出せない。ぼくは命があったのだからそれだけでもいい」と希望を持とうとしていました。

 大地震の被害を受けた栄村のお年よりも同じ言葉です。「もう家を造る元気はない。ここに住み続けることができるだろうか」と崩壊した家の前で呆然として「それでも命だけは助かった。東北の人を思えばありがたいことだ」と自分を励ましていました。

 「生きているだけで」の言葉はあまりにも重い。命が助かって本当に良かった。でも、今を生き抜くために、何もかも失いぎりぎりのところに立たされている被災者が自分を支えるには、そう考えるしかないのです。

私の故郷は無惨な姿に

 私の故郷は、映像では実感できない惨憺たる状況でした。日和山から見おろした海岸沿いの南浜町、門脇町の壊滅した光景はまさに「地獄絵」、私は呆然としました。もしかしたらあのヘドロの瓦礫の中に、連絡のつかない私の友人も眠っているかもしれないのです。
 こんな時になぜ政府は、アメリカへの思いやり予算の新たな協定を結んだのか。それも4月1日のことです。なぜ平気で危険な浅川ダム建設に巨額の税金を使えるのか。被災者を何より励ますのは国のあたたかい心です。国民は誰もが心を痛め「せめて募金を」と小さな子どもさえお小遣いを投じてくれています。
 いっせい地方選挙は後半戦に入ります。深刻な原発問題もあります。救援復興への国民の連帯の絆を固くし、新しい国づくりへ向かわなければなりません。

             (2011年4月11日  記)