コラム―散歩道

母の思いで

震災と母の死

 震災からちょうど2ヶ月目の5月11日の朝、母は逝きました。石巻で震災のショックから瀕死の状態になり長野に避難して2ヶ月、点滴と輸血でがんばり、その間にこどもや孫にお別れをして力尽きました。90歳でした。石巻にいたら、老人施設で寒さにふるえ、家族とも会えず淋しく逝ってしまったかもしれないと考えると、せめてもの慰めになります。
 しかし故郷では、多くの方が無念の死をとげ、残された方は癒えることのない傷を心に負いながら、困難に立ち向かっています。母の姿に故郷のたくさんの被災者の苦しみが重なり、一日も早い復興をめざし私も皆さんとともに力を尽くしていきたいと強く思っています。
 母の人生は波乱万丈でした。大震災で締めくくるとは、最後までなんという劇的な人生だったことでしょう。

どんなに小さいものでもみんなで分けあって

 最初の結婚で夫を亡くした母は、生まれたばかりの子どもを嫁ぎ先に残し、17歳離れた父と再婚し、私を頭に3人の子をもうけました。同居していた父の兄弟3人は文字とおり「鬼千匹」であったと。末の弟は妻と子ども二人の4人家族での同居でした。母は父の先妻の子ども二人の義母ともなり、多感な思春期だった兄は横道にそれ「今日は警察が来なかった」と心休まらない毎日、徹底的に反抗した姉との格闘も「誰と結婚してもいいが、人の子だけは育てるな」と私に言い聞かせたほど、並大抵の苦労ではありませんでした。
 さらに105歳まで長生きした大姑の介護に追われ、その上に、貧乏家計を助けるために夜は着物の仕立てをして働きました。私は母の寝ている姿を見た事はなく、とてもやせていて家の炉辺に刺してあった金火箸のようだと思っていました。
 父は真っ黒になって働く子煩悩な人でしたが、浮いた話で母を困らせる始末。ごろつきのような小さな地方新聞社の記者が、父のスキャンダルを新聞に書きたてると脅しに来たこともあります。母は財布をはたいてお金をつくり「子どもが小さいから」と頭を下げてもみ消していました。
 家族の絆がバラバラで憎しみさえあった家庭の中で、母がいつも私たちに行動で示してくれたことは「どんな小さいものでもみんなで分けあうこと」「年寄りを大事にすること」の二つでした。それは徹底していました。今思えば、それが私の価値観となり日々の暮らしの支えになっていたと思うのです。

私の反抗

 とは言っても、思春期の頃の私は母にはとても反抗的でした。「もしお前たちがいなかったらとっくにこんな家、出て行った」という言葉が大嫌いでした。「自分で選んだ人生ではないか。私は生んでくれと頼んだ覚えはない。勝手に生んで私たちのせいにしないで!!」と言い捨てました。潔癖で融通のきかない思春期の反抗は、同性であるからこそいっそう許せない思いにもかられたほど強かったのです。
 宮城県の高校は男女別学です。女学校での毎度の校長先生の「良妻賢母」の講話も、私をうんざりさせ息が詰まりそうでした。

「経済的自立こそ自由を保障する」

 しかし母は愚痴を言うだけでなく、自分にはできなかった生き方の道を私に開いてくれたのです。
 大学進学を希望した私に、明治生まれの父は「金もないし女は勉強などしなくてもいい」と言い張りました。母はその父に「これからは女も自分の力で生きてゆく時代。私のように針を押しているだけでは一人では暮らせない。学問はどんなことをしてもやりたい時にやらせなくてはだめだ」と教員になりたかった私を応援し、父を説得したのです。奨学金も受け、母の妹からの借金もして、進学させてくれました。
 「経済的自立こそが、女性が自由に生きることができる保障だよ」との母の言は心に根を張って、私の信念となりました。

 果たして私は子どもたちに亡き母のように、私が選んだ生き方のすばらしさを伝えられているのだろうか。
 父は無年金者の日雇い労働者でした。70歳頃、機械に巻き込まれ右腕を切断し労災が適用された時「良かった。右腕一本で死ぬまで安心だ」といいました。私が子どもたちに伝えたいことは、貧しさとそれと表裏一体の戦争は私たちの力でなくせるという確信です。「どんな小さなものでも分け合う」心があればそれはできる。母の教えは、私が共産党員になったルーツかもしれません。

震災から「分かち合う」政治を

 大震災の被災者を前に、政府は相変わらず大企業とアメリカにへつらう姿勢を崩さない。だけど、「原発はやめよう」との世論の急激な広がりを見ても、今、新しい政治への胎動を感じます。国民は戦後以来最大の国難を乗り越えようと、心寄せ合い力を合わせています。この私たちこそが「どんな小さなものでも分かち合う」平等の社会を前進させている主人公です。母の言葉の深さを感じています。
              (2011年 5月28日 記)