コラム―散歩道

りんごはなんにも言わないけれど

「ボケりんご」っていうの?!

 りんごのおいしさを知ったのは、長野に住み着いてからです。故郷の宮城では、魚介類の新鮮は長野には負けないけれど果物との縁は深くありませんでした。私の記憶ではりんごと言えば「インドリンゴ」、つやつや磨かれて並んだ姿に「きれいだな」と羨望のまなざしがありましたから、きっとわが家にとっては高級品だったのでしょう。滅多に口にしませんでした。たまたま食べたときの印象は「めしょめしょした甘いもの」で、それが私のりんごのイメージでした。ところが、長野に来て食べた「フジ」は歯ごたえがあり、汁がしたたりました。「柔らかい」のは「ボケりんご」だと知りました。長野生まれの夫が石巻の私の実家で「こんなにおいしいものだったなんて」とアジの塩焼きを見直した経験と同じです。宅配便もまだなかった時代です。

リンゴのルーツは?

 「白雪姫」にも「ウィリアム・テル」にも島崎藤村の詩にもりんごは出てきますし、「カチューシャ」にも季節の花で歌われています。りんごは世界中で愛されているのですね。原産地はどこだろう、日本にはいつ頃来たのだろう・・・素朴な疑問をもちます。
 トルコで8000年前の炭化したりんごが見つかっています。元々は中央アジアの山岳地帯が原産地、日本に入ったのは平安時代ですが、それはトルコの流れの西洋りんごではなくて、アジアに伝わった流れの中国からの和りんごでした。姫りんごほどの大きさで、盆前に収穫されお供えに使われたそうです。和りんごはもう廃れましたが、なんと、長野県飯綱町に6本だけ残っているそうです。「高坂りんご」と呼ばれて善光寺の中店に並ぶというのですが、貴重な木が我家のすぐ北の隣町にあったと知った時は、誇らしい気持ちになりました。
 今のりんごは西洋りんご、これはちょうど島崎藤村が生まれたころ、明治の初めに日本にやってきました。最古の木は青森県の津軽市にありますが、最初の栽培は北海道でドイツ人によるとされています。

TPPでリンゴはどうなる

 りんごは国内産でまかなえているかと思えば、さにあらず。自給率は約5割から6割です。
 農家の話では、選別から外れた果汁用のりんごが売れなくなったそうです。今まで1カートン1000円だったのが「500円でもいらない。輸入品の方がずっと安い」と加工業者が断ってきたというのです。りんごは穴を掘って埋められました。
 濃縮果汁が中国からたくさん入ってきています。中国の大手企業「アンドレジュース」の総裁の王氏も言っているように「我が社の濃縮ジュースはグリコ、キリン、サントリーなどで使ってもらっている。今の輸出は生産量の3パーセントだが10パーセントまで増やしたい」と、日本への市場拡大を期待しています。
 「一生懸命つくっても肥料代にもならない」と、後継者ができないため伐採せざるを得ない農家も出ています。木の株だけが並ぶりんご園は、自民党政治の結末です。
 野田政権が強行しようとしているTPP参加は、農林漁業の全滅を意味します。日本のりんごは幻の果物となり、りんご園は広大な荒れ地と化してしまうことでしょう。
 「不況だと買物は野菜が先。果物は嗜好品であとまわし」と、りんごは今までも政治に痛めつけられてきました。第二次世界大戦の時は「リンゴは食料にならない」として作付け禁止令が出て、伐採され、芋やカボチャ畑に変えられた歴史もあります。
 「リンゴはなんにも言わないけれど」、リンゴは「花や果物などが楽しめなくて、どうしてゆたかなくらしと言えるでしょうか。日本から私たちをなくさないで」と言っているのではないでしょうか。その気持「良くわかるよ、かわいやりんご」。
 私の故郷は二つ、海風を受け働く漁師のたくましい姿、真っ赤なりんごをもぎ取る農民の笑顔です。魚もりんごも廃れた故郷はあり得ない。暮らしも経済も破綻した抜け殻の姿です。私はTPP参加を絶対に許しません。

リンゴの実るとき去り、花とともに逝った母

 私が長野に住み着いたことで、母もりんごと出会い、四季折々のりんご園を大きな感動をもって受け止めていました。「長野のこどもはえらいね。手が届くところに実がなっているのに、誰一人採ろうとする子はいないね」と驚き、薄紅色の花を愛で、甘酸っぱい実りに感嘆の声をあげ、りんごの木の下で、一句ひねるのでした。
 いよいよ晩年、しばらく住み着いていた長野で、終の棲家を長野にするか石巻にするか、さんざん迷い、やっぱり石巻に帰って行きました。りんごの実る秋でした。最後に散歩したのが土京川の辺のりんご園。車椅子で記念写真に収まりました。そして、6年後のこの3月、震災に遭い再び長野に戻ってきて、りんごの花の咲く5月11日に逝きました。お墓も流されたので、お骨はそのまま長野にあります。母はどちらも終の棲家にしたかったのか、こんな形で戻ってきました。

    (2011年 10月 31日 記)