ベトナムからのたより―平和と友好の旅
2011年9月21日 3日目 フエへ
朝8時ホテル発、空路でフエに向かう。1時間半ほどで、簡素な空港に到着した。フエは古都の町、郊外は穏やかな農村で、落ちつきのある町だった。
王宮の見学など
まずは古都の見学、王宮などの世界遺産のすばらしさに触れ、ティンムー寺にも行った。このお寺はフランスのベトナム植民地政策に抵抗したお坊さんが焼身自殺をして世界を驚愕させた、そのお坊さんの出身の寺である。彼がハノイまで乗っていき、ガソリンを抜いてわが身にかけたその車が展示してあり、ベトナム人民に尊敬されている彼は立派な廟に眠っていた。
世界遺産の王宮郡は、ベトナムの歴史が刻まれた、規模といい古さといい芸術性といい、それはすばらしいものであり、さすが世界遺産である。ただ、広大なこの遺産を管理するのは容易ではないだろうと、崩れ落ちそうな部分に手が入らない様子からも想像した。
すばらしい歴史遺産に触れると同時に、今日の私の目的のひとつは、ストリートチルドレンの自立支援施設「子どもの家」の訪問だった
「子どもの家」訪問、懇談
この家は日本人の小山道夫さんが、平成4年、ベトナムが初めて資本主義国の国民の入国もみとめて「開国」したとき、早速訪問した時に、路上にたむろするストリートチルドレンとで会い、心を痛め、それをきっかけに創設した施設である。現在「子どもの家を支える会」の代表をしており、日本にも事務所がある。
小山道夫さんは私と夫と同じ団塊の世代、青年時代をベトナム戦争支援の中ですごした。また彼の通っていた高校が先進的な学校だったので、授業としてベトナム戦争の何たるかを、ベトナムの歴史とともに1年がかりでしっかり学んできたという経験の持ち主だった。当時はそんな自由な教育ができる余裕のある教育環境だったのだと、最近の歴史教育の変貌振りはやめさせなければと思う。
そんな理由で小山さんの心には、ベトナムが深く根付いていたという。また、彼のもともとの仕事は教師であったことも手伝い、ベトナムで出会った子どもの不幸を見ていられなかったのだろう。
旅行前の準備で、「見学だけでなくスタッフとの懇談をも」と手続きの申し込みをたのんでおいたが、そうはいってもほんの30分程度のお付き合いだろうと思っていったところ、なんと懇談は3時間にわたった。
全ての内容はとても書きつくせないが、ベトナム戦争の孤児だけでなく、さまざまな困難の中で子育てができなくなった親や、または子どもの不幸を見かねた近所の人が、子どもを連れてここを訪れるという。
たとえばある少女は未婚の母と共に、古いしきたりの田舎にいられなくなり橋の下でホームレスをしていたところを保護されたという。しかし、不通の生活が送れるようになるためには一筋縄でいかない苦労がある。施設を飛び出し麻薬に走り、また連れ戻し、子どもを信じて何度でも苦労を共にするスタッフがここにはいた。
「女の子は売春に、男の子はやくざになっていく。それを自立して生活できる力をつける場にしたい。繁華街で物乞いなどして暮らしてきた子が、朝きちんと起きて食事を取って夜は寝るというリズムを身につけるのは、たたかいです。わめきちらし泣き叫ぶ子もいる」と小山さんは語ります。
しかし、そんな困難やトラウマを抱えた子達が、ベトナムでも難関の医科大学を始めとするさまざまな大学への入学率も高く、また、どうしようもなかった子が、絵の才能が発見され美術大学に入って力を発揮している子、勉強は嫌いだと刺繍や美容師などの技術を身につける子と、今まで400人以上巣立っているこどもたちは、見事に新しい自分の人生を切り開き、築いている。
事務所の一階では「和食の店」が経営されており、ここでも栄養士や調理師になった子が、とても立派な、日本の店に引けを取らないメニューをこなしていた。
学校前の幼い子から大きな子まで、40数人が生活していたが、みんなくったくがなく明るかった。私は、教育の原点をかみしめた。どの子も、発達の可能性をもっている。必要なのは信頼と愛情と環境だ。「同じに生を受けたのに、差別されることは赦されない。これが私の原点です」と小山さんは語った。その通りだ。
さらに、小山さんの偉大な仕事は、ベトナムの障がい児の発見に努めたことである。
フエ医科大学協力でその一角に「障害児医療センター」を設け、そこを拠点にしっかりと調査活動をし、2000人の障がい児を発見したという。
どうやったか。ベトナムでは産児制限指導員が村々に配置されており、産児制限の相談にのっている。ベトナムでは「二人っこ」政策をとっており、3人目を生むと出世ができないとかボーナスがカットされるとか処罰があるそうだ。もっとも田舎ではゆるいということだが。この産児制限指導員の力を借りたそうである。
雪さんの話では「日本に行って驚いたことは、スーパーでコンドームを売っていることです。ベトナムでは産児制限の指導員がくれる。政府が支給しています」とのことだった。まだ自由に手に入らないことも、制限を難しくしているようだった。
小山さんから、二つの問題提起があった。
ひとつは、「枯葉剤による障害の発生は、現在はまだ科学的な根拠を証明できてない。日本のマスコミもベトナムの障害児というと即、枯葉剤と結び付けるが、慎重にすべきだ。自分たちの調査で一番多い原因は日本脳炎の後遺症だ。2番目は栄養失調。ベトナムは枯れ葉剤の損害賠償についても、今から本格的にアメリカとのたたかいを起こしていかなければならないとき。だから、もっと科学的な調査を行って裏付けを取っておかなくてはならない」ということ。
もうひとつはベトナムの医療事情の改善。
「ベトナムには保険がない。たとえばフエで心臓の病気になってもフエでは手術できる病院はない。ハノイまで手術に行かなければならない。たとえばフエの中央病院では入院費は一日1万円。田舎の人は年収がせいぜい2万から3万。年収がですよ。日本語学校の教師の給料が1ヶ月1万円です。どれだけ医療費の負担が大きいか。貧乏人は病気になったら死ぬしかない。
この子も、心臓が悪く死にそうだったが、募金を集めてハノイで手術をすることができて、今はこのとおり健康です」
ハノイの障がい児養育施設の見学懇談でも感じたが、医療、福祉の分野での国民の要求は大変大きいものがある。ベトナム政府が、一日も早いこの分野での発展のために力を注いでもらいたいものだと思った。
雪さんが「医療は本当にひどい。医者が足りない、ベッドが足りない。一つのベッドに二人、寝ています」と実態を語ってくれた。
小山さんには、ベトナムの医療福祉の実態や子どもの様子を知る大変有意義な時間を割いていただき、感謝でいっぱいだった。
そのため、ほかの見学地を削除したが、それに余りある一日だった。
最後に小山さんは「日本では共産党がもっと伸びないとだめですね。政治を変えないと子どもは守れない。がんばってください」と励ましてくれた。
そうそう、「子どもの家」の事務所長さんのバオ・ミンさんは、見学した世界遺産の王宮のバオ一族の直系の末裔だった。皇族だから苗字がない。だから出国する時のチェックで必ずひかっかるそうだ。ミンさんは、非常に優れた能力の持ち主だと、小山さんはべたほめだった。