中国へ―平和と友好の旅
日本語ガイド湯さん
ガイドは平和と友好の架け橋の役目
一週間通しで通訳兼ガイドを務めてくれた湯さんは、日本語が大変流暢だ。そして熱血漢だ。私は彼のおかげで、旅行が予想を超えて意義のあるものになったと感謝している。例えば、列車の中での中国人との会話ひとつとっても、湯さんの博識と平和への情熱と確固たる信念があるからこそ、日本と中国双方を豊かにつなぐ通訳の役割を果たしてくれたと実感している。
また、時には彼がぶつけてくるあまりに激しい怒りに、身の置き所がなくなる辛さもあったが、私たちへの信頼があってこそ、侵略された中国人の思いを私たちにあのように伝えられたのだと思う。
湯さんは大連の大学の日本語学科を卒業し、学んだことを生かせる職業をと、旅行社を選んだ。彼は南京中北友好国際旅行社の副総経理である。日本の旅行会社、富士ツーリストとも連携契約して「友好の旅」に携わっている。今回、私たちは富士ツーリストにお世話になって、経験豊かな湯さんと出会えた。
私は、十年前の沖縄の旅行を思い出した。バスガイドさんの仕事がいかに価値あるものであるかを初めて認識させてくれた旅だった。沖縄でのガイドさんは、平和委員会と連携して沖縄の歴史を学んでいた。だから、沖縄戦の歴史的事実や現在の沖縄の基地をめぐる問題ついて、非常にリアルに思いをこめて語ってくれた。ガイドとは、こんなにもすばらしい仕事なのだ、と認識を新たにした経験だった。
湯さんもまた、すばらしいガイドだった。
戦後半世紀、今なお毒ガスが
湯さんの大学の学費は国が出してくれた。学費だけでなく、生活費の面倒も見てくれたそうだ。だから国の要求する仕事に着かなければならなかったが、湯さんの希望と国の要求が一致したのだという。
湯さんはチチハルの出身、ハルピンより北だから、どんなに寒いところなのか。写真を見ると、「スーホーの白い馬」の舞台を連想させる果てしない草原だ。郊外には、この美しい土地を象徴する「丹頂鶴の故里」と呼ばれる自然保護区のザーロンがある。
彼の手はたくましく働いたあとがわかる手、もろこしの実をこそげてできた手のたこが今でも、いくら削っても硬くまた出てくるそうだ。「こうやってよくやりましたよ」と身振りで教えてくれた。子どものころから、大切な労働力として働いてきた様子がうかがい知れた。
チチハルは大自然の美しさに酔いしれてばかりいることを私たちに許さない地でもある。日本軍が遺棄した毒ガス弾による被害が相次いで起き、死亡者を出す惨事が起きていることだ。二〇〇三年八月には、毒ガス中毒により四十人以上が入院、うち一人が死亡している。戦後半世紀をとうに過ぎているのに、なお戦争の刃は人々を苦しめているのだ。
湯さんの日本軍国主義への怒りは、故郷チチハルで起きている事件で、一層、激しくなっているのではないだろうか。毒ガスの遺棄は日本国内でも被害をもたらしている。私の母の故郷、神奈川県大磯町の隣街、平塚市でも深刻な被害がおきている。
だから、どちらも日本軍国主義の犠牲者なのだから、湯さんの、「平和を愛する皆さんをご案内でき、本当にうれしい。」との言葉は、大変嬉しかった。日本政府が、国民間の緊張関係を作っている張本人だ。
中国でも不登校?
彼の時代の奨学金制度は、今は廃止されたのだろうか。現代の中国では教育費の負担が大きく、相当なお金がないと進学できない。
長春のガイドの李さんの話では、「中国も、六・三・三制。義務教育は権利をうたうだけで授業料をとります。小学校はないが、中学で五千元。例えば付属小学校を選ぶと、入学金だけで一万五千元、中学校は二万四千元、高校は二万八千元必要です。」
平均的な労働者の給料が八百元かせいぜい一千元、それ以下の生活を強いられている人も多いわけだから、貧富の差が教育を受ける権利を決めてしまうことになる。
「不登校は中国にもある」の湯さんの言葉には、一瞬おどろいた。しかし、日本とは事情が違っていた。不登校は内陸北西部の山の子に多い。どの村にも学校があるとは限らない。交通の便が悪く遠くまで通いきれないし、学費も払えない。また、自分も教育を受けてないから、子どもにも教育がぜひ必要と思わない親も、一部いるとのことだった。
一方では、一人っ子政策のため親は子どもの教育に大変熱心になっていて、教育費に縛られて、それこそ一生懸命働いている。明るい話では、「希望プロジェクト」が組まれ、学校のない山奥に出資金を募って「希望小学校」をつくっている話である。日本も寄付していると聞いた。子どもたちのための動きがあることに、私は希望を託したいと思った。