2009年11月─韓国のたび

11月23日「ナヌムの家」・「日本軍‘慰安婦’歴史館」

 3日目の今日の私の一番の目的は、「ナヌムの家」と「日本軍‘慰安婦’歴史館」の見学、できたら、ハルモニとお話できたら・・・・と思っていたが、それは大きくは期待しなかった。 年を重ねたハルモニが、体も弱くなり辛い話しをすることも、もう限界だと聞いていたから。でも、ここはどうしても行っておかなければならない場所だった。

 午前中いっぱい、「ナヌムの家」と「記念館」、午後はユネスコの世界遺産になっていう水原の華城(スウォン・ファソン)の見学、その後、車で3時間南下して、全州に着き、今、全州のホテルでのパソコンに向っている。

 
 さて、ホテルでのバイキング朝食を済ませたら、通訳のスヨンさんが早速ホテルに到着していた。
この旅行はスヨンさんの力に頼るばかりで、彼女は大変な博学、勉強家である。昨日話題になった「サツマイモ」の韓国への伝来について、大きな話題ではなくこちらは忘れかけていたのだが、ちゃんと調べてきてくださった。
 また、その時々、私たちが望むことをいち早く察知して、テキパキとこなしてくれる。長野市長選挙が終わったばかりだが、候補者で奮闘してくれた高野登さんの「サービスを越える瞬間」を地でいっているような優れた案内人だ。
 また、だんだん打ち解けて仲良くなってきた彼女から、韓国の日常生活や庶民の気持を知ることができるのも、大変魅力だ。感謝である。

 ソウルから南東方面へやく1時間車を走らせると、広州に入った。田舎の細い道をどんどんと入ってゆくと、「着きましたよ、そこがナヌムの家です」。
 外が見える大きな窓のガラス越しに、ハルモニがこちらを見ていた。「こんにちわ」と頭を下げたら会釈をしてくれる。
 ナヌムの家に入ると、オンドルに暖められた床にほっとする。そこで洗濯や日向ぼっこをしていたハルモニと、たわいも無い雑談ができた。
 「どこから来たの?名古屋?」日本語を話せるハルモニもいた。現在は9人のハルモニが共同生活しているという。最近新しく立て直したそうで、明るく開放的な家だった。おしゃれをして、これから出かけるハルモニもいた。
 
 ハルモニは私の母のように、小さな体に優しい目と苦労が刻まれたしわがいっぱいだ。とても軽々しく過去のことをお聞きすることはできない。
 誰がこの人たちに、口では言えぬほどの凄惨な思いをさせ、人生を狂わし奪ったのか・・・それははっきりしている。
 日本が前回の選挙で国民が快挙を成し遂げ、自民党政治を終焉させた。新しい社会へと大きく前進しようとしているとき、昨日のソデムン刑務所や、このハルモニたちと正面から向かい合い、あの侵略戦争をきちんと反省することが出発点であることは、誰の目にも明らかである。過去を直視できないものは、現在を知ることもできず未来を創ることも決してできない。

 ナヌムの家・歴史館の研究員として働いている日本人の村山一平さんが、案内をしてくれた。彼は、日本政府がいまだに損害賠償をしようとしないことへの怒りをこめて、説明してくれた。

 若者が二人、サポーターをしてくれたが、一人は日本の中央大学の学生さん学生さんはもう2ヵ月半も、ここに住み込んでボランテァをしているという。もう就職が決まっているそうだが、担当の教官に勧められて、長く滞在しているという。
 もう一人は「軍隊の兵役の変わりに福祉施設で働いている」男性だった。スヨンさんの息子さんも来年は兵役だと聞いた。日本には兵役は無いから、息子を「兵役」に出す母親の気持を感じ取ろうと想像をめぐらしてみる。できれば出したくないのが親心ではないだろうか。
 あとで、兵役の話しも詳しくきてみようと思う。

 どこへ行っても日本が犯した戦争犯罪の前では、私の心はことばの表現を失ってしまう。アジアの皆さんに日本人であることを恥じ、しかし日本の庶民も同じく戦争で犠牲を強いられた苦しみを断ち切るたたかいの仲間なのだと、共感しあいたいと思う。
 こんなとき、私が命を懸けて戦争に反対した共産党員であることを心から誇りを持ち、私がいましなければならない人類史における責任の一端を、たとえ大海の一滴の水の存在であっても果たしてゆこうと心から思う瞬間だ。

 韓国政府に対して、登録したハルモニは234人、この11月現在で生存者は90名。北朝鮮にも200人はいるとのこと、生存者は40名。しかし、‘慰安婦’は朝鮮だけではない。中国はもとより、シンガポール、フィリピンなどの南方にも、世界中に何千箇所、何万箇所に作られたか、つかみようが無い。
 朝鮮半島から南方まで連れて行かれたハルモニもいる。いまだに過去を言えないで苦しんでいる人もいるであろう。

 再現されていた慰安所には、粗末なベッドの脇に性器を洗浄するための金たらいがあった。同じ女性として、しかも、14や15の初潮もこない少女までが・・・と胸が張り裂ける思いだ。

 2000年7月、共産党は「戦時における性的強制にかかわる問題の解決に関する法案」を参議院に提案、これには他党案に無い「日本人慰安婦」も救済の対称にしている。
 10月には、共産党、民主党、社民党3野党の「慰安婦」法案が参議院に出され、2001年の通常国会にはそれが一本化された法案が出されるまでになりました。しかし、国会で慰安婦問題が取上げられてから10年、その後8回も提案したのに、審議も十分にされない常態、教育の分野では「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書からは「慰安婦」記述が消されていくことも起きている。
 戦争を美化し、女性蔑視の考えを肯定し、人権を踏みにじる。許してはならない時代錯誤の考えである。

 村山さんは「政権も民主党に変わったし、期待をしているのですが・・・」と話された。
 ハルモニたちは、雨が降っても風が吹いても、水曜集会を続けている。スヨンさんの報告では、今年の10月現在で886回だという。17年間もの間耐え抜き、がんばり、年老いてゆくハルモニの人間としての崇高な叫びに一日も早く応えなければならない。
 ハルモニは文字を勉強する機会さえ奪われた。展示されている絵から、ハルモニの文字で表せない、奪われた人生の悔しさが伝わってくる。

 出口には、絵葉書や冊子が並んでいた。歴史館の管理費の一部になるという。韓国語の本と並んで、かもがわブックレットや、慰安婦問題に議員生命をかけて国会で論戦の先頭に立ってきた、吉川春子さんの「アジアの花たち」も並んでいた。
 一緒に来る予定だった石坂ちほさんと広瀬進さんに、ハルモニの描いた絵の絵葉書と歴史館の冊子を買った。

 HさんとOさんが一日早く帰国のため夕方お別れ。今晩からはMさんとNさん、そしてガイドのスヨンさんとの4人旅である。4人でチョンジュへ移動した。

 今晩の夕飯は、チョンジュでビビンパを食べた。ジョンジュはビビンパの発祥の地である。毎日おいしい韓国料理を食べているが、食べ物はそれだけの話を書かなければならないほど、多彩で和食とはまったく異なる優れもの。またの機会に。
 世界遺産のこともたくさん報告したいのに、今晩はこのくらいで精一杯だ。

 
 
 仲間のはからいでずっと一人部屋を独占、しかも、ダブルとシングルベッドがある広くて、事務仕事用の勉強机まで置いてある立派なルームだ。
 ホテルのスヨンさんお勧めの地酒をちびちびやりながら・・・。