ホテルの朝窓を開ければ、チョンジュ(全州)の昔からの瓦葺の町並みが広がっていた。大変すばらしい場所にホテルを取っていただいた、同行している行方さんに感謝した。この旅行は、以前旅行会社に勤めていたベテランの行方さんのお蔭で、こちらの注文通りの旅行を組んでいただくことができたのだ。行方さんなしでは、普通の観光旅行になってしまったであろう。
チョンジュは人口63万人の都市、古い町並みを楽しんだあと、さらに南に下って井邑へ移動、目的の「東学農民運動歴史館」を訪れた。
この一帯は金羅道(チェルラド・韓国南部)と呼ばれている地域、私の生まれ故郷の宮城にも、長野県の農村地帯にも似た広大な農地の風景が広がるなかを、車は「歴史館」へと向う。韓国の穀倉地帯だ。
ここが、韓国の農民一揆、韓国革命運動の発祥の地、朝鮮が日本の侵略に対し、始めて抵抗のたたかいを起こした地でもある。
1875年、日本は武力で侵入し不平等条約を押し付けた。それは、欧米諸国から日本に押し付けられた不平等条約よりもひどい内容だった。
それまでも、農民は不正な税のとりたてにより、非常に貧しい生活を強いられ、記念館の写真にも、米俵を前に、あばら骨の出ている農民の姿が映し出されている。たびたびの農民一揆は起きていたが、この不平等条約によって、さらに事態は悪化した。
不平等条約の項目の中には「朝鮮からの米穀輸出の自由」「関税の免除」が含まれていた。米、まめ、金、銀などを安く買い叩かれ、代わりに入ってきたのは、絹織物、漆器、時計・・・などであり、もうけたのは政治家や商人であり、農民はさらにどん底へと突き落とされていったのだ。
この「輸出の自由化」は、今日日本がアメリカに押し付けられているFTA交渉にも根本的に通じるものがあるのではないか。恥ずべきこと、交渉に応ずることは、日本を売り渡すことだ。
農民蜂起の指導者だったチョン・ボンジュンは「百姓は国家の根本である。根本が衰えるなら国家は必ず滅びる」と言っている。この言葉は、そのまま今も変わらない本質的な真実だ。
さて、過酷な搾取に対し「すべての人は平等」を根本思想とする東学が広まっていったのは当然のことといえるだろう。蜂起の直接の原因は、新しい「水税金」がかせられたことにあったが、背景には日本軍国主義が深く関与していたのだ。
指導者はチョン・ボンジュン、2回の大きな蜂起が起きるが、一時は一定の和解をするものの、最後は朝鮮官軍と日本軍によって、虐殺とも言える殺戮で全滅させられた。新型武器を持つ日本軍1千人朝鮮官軍は1万、それに対して農民軍は2万人だった。
全国蜂起は150万人、65箇所とも言われているが、中でもそれは、今日訪れた金羅道(チェルラド)に集中している。
この農民革命を契機に、清を退け朝鮮を我が物とするために、日本は日清戦争を勃発させた。
韓国の人は、この偉大な革命の地「チュラルド」には偏見があるそうだ。「恐ろしいところ」「あか」と教え込まれてきたらしい。
ある人は現地を訪れ事実を知るまでは、「チェラルド地方の言葉のなまりを聞くだけでもいやだ。行きたくもないと思っていた」そうである。
共産主義に対する反発は、北朝鮮の「共産主義」の名を借りた民主主義をつぶした独裁の軍事政権の存在から来る嫌悪感、拒否感もあるだろうし、農民革命を政府がきちんと位置づけなかったことも、原因としてあることだろう。いつの世も、時の政府に抵抗したものは反逆者として不当に扱われる。
しかし、やっとチョン・ボンジュンらの行動が「農民の乱」でなく「革命」として認められてきたという。そして、法律から「共産主義禁止」がきえて、新しい時代に入ってきたことは喜ばしく、志位委員長の訪韓も、きっと韓国民と私たちの友好を深めることにつながるだろうと期待をしている。
生々しい歴史の資料をつぶさに説明してくれたのは、館長さんの柳太吉(リュウ)さん、素朴なおじさんだった。実はリュウさんは、東学農民の末裔だと知った。
最近、日本のNHKがこの記念館に取材に入ったそうだ。その時「リュウさんは、東学農民運動の末裔として、反日感情は無いのか」との質問を受けた。
彼は「日本人が悪いのではない、侵略者が悪いのだ」と応えたという。
私は思わず泣けてきた。この旅行を通して、朝鮮人民の抵抗の歴史を学び、それが日本共産党の歴史とも重なり、いつでも苦しめられる庶民のしあわせと、すべての人が人間としての開放を得るための連帯の気持が彷彿としていたときだったので、リュウさんのことばが深く胸に沁みていった。
今日は私たち以外、誰も会館を訪れている人はいなかった。
入り口に来館名簿があったのでめくって見たが、日本人の訪問客は皆無だった。ソウルから高速に乗っても約4時間、チョンジュからは小1時間だが、ほかに何の観光するところも無い、広い田園地帯にぽっつりと立っている記念館だから足を伸ばすのは大変なことだろうが、残念なことだと思った。
私は、思いをこめて、自分の名前を記載してきた。